「元世儁」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目:
'''元 世儁'''(げん せいしゅん、生没年不詳)は、[[中国]]の[[北魏]]・[[東魏]]の[[皇族]]。
 
== 経歴 ==
[[元嵩]]の次男として生まれた。給事中・東宮舎人に任じられた。伯父の[[元澄]]の働きかけにより、員外散騎常侍の位を受けた。[[孝明帝]]のとき、父の勲功により衛県開国男に封じられた。冠軍将軍・宗正少卿に転じた。また安南将軍・武衛将軍・河南尹となった。まもなく鎮東将軍・[[青州 (山東省)|青州]][[刺史]]に任じられ、征東将軍に転じ、散騎常侍の位を加えられた。[[528年]]([[建義 (北魏)|建義]]元年)、[[ケイ杲|邢杲]]が反乱を起こして、青州の州城を包囲すると、世儁は城を固めて守り抜いた。[[孝荘帝]]のとき、[[衛将軍]]・吏部尚書に任じられた。[[530年]]([[永安 (北魏)|永安]]3年)、[[爾朱兆]]が洛陽に向けて進軍してくると、世儁は本官のまま都督に任じられて、河橋を守った。爾朱兆が[[黄河]]の北岸に迫ると、世儁には抵抗する意志がなく、その渡河を見送った。[[元恭|前廃帝]]のとき、[[驃騎将軍]]の位を受け、尚書をつとめて、[[爾朱世隆]]と親しかった。[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]の初年、[[儀同三司]]の位を受け、武陽県開国子に改封された。人事の官にあって収賄すること多く、御史中尉の弾劾を受けて免官された。まもなくもとの職に戻った。東魏の初年、[[侍中]]・尚書右僕射に任じられ、[[尚書令]]に転じた。世儁は軽薄な性格で、仕事をよく放棄したため、[[太原市|晋陽]]に送られた。[[興和 (東魏)|興和]]年間、死去した。侍中・都督冀定瀛殷四州諸軍事・驃騎大将軍・[[太傅]]・[[定州]]刺史の位を追贈された。[[諡]]は躁戻といった。
 
== 子女 ==