「関ヶ原の戦い」の版間の差分

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→‎9月15日の布陣と戦闘経過: 画像:関ヶ原合戦図屏風、鉄砲
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慶長・文禄の役の際、石田三成・増田長盛を中心とした奉行衆と加藤清正・黒田長政らを中心とする渡海軍諸将との間に発生した作戦方針・軍功を巡る対立が関ヶ原の戦いの主要因とする説である。この対立関係は豊臣政権において主に政務活動を担当した「文治派」と、軍事活動に従事した「武断派」との対立を含んだものともされる{{sfn|笠谷 1998}}。
 
しかし両派閥の不仲を示した逸話には一次史料による確認が取れないものや創作と思われるものが多く<ref>中野等「黒田官兵衛と朝鮮出兵」(『黒田官兵衛 -豊臣秀吉の天下取りを支えた軍師-』宮帯出版社、2014年)</ref><ref>中野等「唐入り(文禄の役)における加藤清正の動向」(『九州文化史研究所紀要』53号、2013年)</ref><ref>金時徳「近世文学と『懲毖録』-朝鮮軍記物(壬辰倭乱作品群)とその周辺-」(『近世文藝』88号、2008年)</ref><ref>山本洋「『陰徳太平記』編述過程における記事の改変について」(『軍記と語り物』44号、2008年)</ref>、一方のちに東軍の属する武将間でも対立関係は存在している。[[巨済島海戦]]の軍功を巡っては加藤嘉明と藤堂高虎が対立しており<ref>津野倫明「慶長の役における「四国衆」」(『歴史に見る四国』雄山閣、2008年)</ref>、蔚山の戦い後、現地諸将より秀吉に提案された戦線縮小案については[[蜂須賀家政]]が賛同したのに対して加藤清正は反対の立場を取っている(慶長3年3月13日付加藤清正宛豊臣秀吉朱印状)<ref>金子拓「肥後加藤家旧蔵豊臣秀吉・秀次朱印状について」(『東京大学史料編纂所研究紀要 』21号、2011年、p.32)</ref>。
 
[[中野等]]は三成を中心とする「文治派」対加藤清正らを中心とする「武断派」との対立の構図は、江戸時代成立の軍記物等の二次史料から発して、その後旧来の研究の中でステレオタイプ化したものとしている<ref>中野等『石田三成伝』(吉川弘文館、2017年、p.523以降)</ref>。例えば、賤ヶ岳七本槍のイメージから武功による出世を果たしたと思われがちな加藤清正は国内統一戦の過程において目立った戦績が無く、朝鮮出兵以前においてはむしろ豊臣直轄地の代官や佐々成政改易後の肥後国統治など文官的活動が主であった<ref>大浪和弥「加藤清正と畿内-肥後入国以前の動向を中心に-」(『堺市博物館研究報告』32号、2013年)</ref>。
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=== 大坂城開城と毛利氏の処分 ===
毛利輝元は、吉川広家や毛利秀元ら毛利一族、[[福原広俊]]ら毛利家臣団の反対を押し切り、三成と彼の意を受けた安国寺恵瓊の要請によって、西軍の総大将に就任してい毛利輝元であるが、関ヶ原の敗北後もなお秀頼を擁して大坂城にあった。立花宗茂は大坂城に籠城しての徹底抗戦を主張しており(『立斎旧聞記』){{sfn|中野|p=121}}、秀頼の命と称して篭城抗戦が行われる可能性も残されていた。
 
家康は[[大野治長]]を大坂城に遣わし、秀頼と淀殿が今回の戦に関係あるとは家康は全く思っていないと説得させた。淀殿は礼の手紙を持たせて大野を送り返している。
 
一方で、関ヶ原本戦において功のある吉川広家が「輝元の西軍総大将就任は本人の関知していないところである」と家康を説得し、家康はその説明に得心したと回答する。これを知った輝元は、福島正則と[[黒田長政]]の開城要求に応じる。福島・黒田に加えて家康家臣の本多忠勝と井伊直政が、家康に領地安堵の意向があることを保障する[[起請文]]を輝元に差し出し、それと引換えに、輝元は[[9月2425日 (旧暦)|9月2425日]]に大坂城西の丸を退去した。 退去後、輝元が京都付近の木津屋敷に引き篭もっていた頃に長雨が続いた。その屋敷の外れには、「輝元と 名にはいへども 雨降りて もり(毛利)くらめきて あき(安芸)はでにけり」、と戦わずして退去した輝元を皮肉る[[落首]]を記した高札が立てられたという<ref>『関原大条志』</ref>。
 
[[9月27日 (旧暦)|9月27日]]、家康は大坂城に入城して秀頼に拝謁し、西の丸を取り戻して秀忠を二の丸に入れた。だが、[[10月2日 (旧暦)|10月2日]]に家康は黒田長政を通じて広家に対し、実際には輝元が積極的に西軍総大将として活動していたという証拠(具体的には、諸大名への西軍参加を呼びかけた書状の発送、伊予において河野通軌ら、河野氏遺臣に毛利家臣である村上元吉を付けて、東軍・加藤嘉明の居城である伊予松前城攻撃に従軍させたこと、大友義統を誘い軍勢を付けて、豊後を錯乱したことなど{{sfn|光成 2007|p=1-19}})が多数発覚したため、広家の説明は事実ではなかったことが明らかになり、である以上は所領安堵の意向は取り消して「毛利氏は改易し、領地は全て没収する」、と通告した。その上で広家には彼の「律儀さ」を褒めた上で、「律儀な広家」に[[周防国]]と[[長門国]]を与えて[[西国]]の抑えを任せたいという旨を同時に伝えた。
 
毛利氏安泰のための内応が水泡に帰した吉川広家は進退窮まる形になった。謀反人の宿老であるにも関わらず「律儀さ」ゆえに彼のみは破格の扱いを受けるという形になった以上、今更「輝元の西軍への関与は知っていたが、自分の努力でなるべく動かないようにさせたので免責してほしい」などと前言を翻し実情を述べて交渉することもできなくなった。そのため、自分自身に加増予定の周防・長門(現在の山口県)を毛利輝元に与えるよう嘆願し、本家の毛利家を見捨てるくらいなら自分も同罪にしてほしい、今後輝元が今後少しでも不届きな心をもてば自分が輝元の首を取って差し出す、という起請文まで提出した。家康としても、九州・四国情勢などの不確定要素がある以上は毛利を完全に追い詰めることは得策ではないため、吉川広家の嘆願を受け入れ、先の毛利氏本家改易決定を撤回し周防・長門29万8千石{{Efn|慶長10年([[1605年]])毛利家御前帳に29万8480石2斗3合と記されている。}}(現在の山口県)への減封とする決定を[[10月10日 (旧暦)|10月10日]]に下した。さらに本拠地を毛利氏が申請した[[周防国|周防]][[山口城|山口]]ではなく、[[長門国|長門]][[萩市|萩]]にするよう命じた。輝元は出家し、家督を嫡男である[[毛利秀就]]に譲り隠居する。
 
毛利領が、安芸ほか山陽・山陰8か国(112万石<ref>「毛利家文書」「全国石高及び大名知行高帳」など</ref>)から防長2か国(29万8千石、のち高直しにより36万9千石{{Efn|慶長15年([[1610年]])に領内検地の後、幕閣とも協議し高直し}})まで一気に減らされたことから、[[吉川氏]]に対し毛利本家は、残された毛利領より3万石([[岩国藩|岩国領]]、後に高直しして6万石)を割き与えたものの諸侯待遇の推挙を幕府に行わない仕打ちを行った{{Efn|ただし、これについては吉川氏は関ヶ原以前より毛利氏庶家の筆頭の地位に過ぎず、万一の際の毛利宗家継承権を有していた[[長府毛利家]]や[[徳山毛利家]]とは同列には出来ないとする見解もある<ref>脇正典「萩藩成立期における両川体制について」(藤野保先生還暦記念会 編『近世日本の政治と外交』([[雄山閣]]、1993年) ISBN 4-639-01195-4)</ref>。}}。しかし吉川広家の功績を知る幕府は、吉川氏を諸侯並みの待遇とし、当主は代替わりに将軍への拝謁が許されるという特権を与えて、吉川広家の功に報いた。
 
なお、家康は輝元と義兄弟の契りを慶長4年([[1599年]](慶長4年)に交わしていたが、それを西軍決起によって輝元に反故にされている。
 
=== 島津氏の処分 ===
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三成の単独決起説も江戸時代成立の軍記物・逸話集などの二次史料の記述が主な根拠であり、さらにそれぞれの内容にも食い違いが見られるなど検討の余地が残されている<ref>[[#布谷2005|布谷 2005]]</ref>。水野伍貴は政権中枢から外され、協力者もいない三成に、反家康闘争に消極的な宇喜多・毛利の両大老が同調する構図は不自然であり、むしろ両大老に積極性があったとする。そして挙兵計画は会津征伐が回避不能になった頃から水面下で進められていたと推測する{{sfn|水野 2016|p=86-89}}。布谷陽子は慶長5年7月15日付上杉景勝宛島津義弘書状に輝元・秀家・三奉行・小西行長・吉継・三成が会津征伐にあたって談合したことが記されていることから、三成を含めた複数人の合議のもと西軍の形成が事前に進行していたとする<ref>[[#布谷2005|布谷 2005]]</ref>。谷徹也は布谷説を肯定しつつ、増田長盛が永井直勝書状を送った7月12日の直前、恐らくは家康が江戸城に到着した第一報が大坂方面に届いたとされる7月2日頃から三成の挙兵に向けた具体的な行動が開始されたと捉え、第一の目的は家康を江戸城に釘付けにするものであったと推測している<ref>谷徹也「総論 石田三成論」谷徹也 編『シリーズ・織豊大名の研究 第七巻 石田三成』(戎光祥出版、2018年) ISBN 978-4-86403-277-3)p62-64.</ref>。
 
毛利輝元は三成と恵瓊の説得に引きずり込まれる形で西軍の総大将になったため、大坂城に留まって積極的な行動を採らなかったとされる。しかし対家康戦への消極的な姿勢とは対照的に、豊臣三奉行よりの要請を受け取った後の大坂入りは極めて迅速なものであり、毛利軍も四国・九州において活発な軍事行動を展開している。これらの点から光成準治は西国における勢力拡大を目的として奉行衆と事前に協議したうえで決起に加わったとし、三成や恵瓊の甘言に乗せられたとする説を否定している{{sfn|光成 2007}}。
 
吉継の参加も消極的なものであったかどうか、その意図を含めて見解が分かれる。吉継が三成との友情を捨てられず、負け戦を覚悟のうえで西軍に加わったとする説は江戸時代成立の二次史料の記述をもとにしており、その真偽については不明である。石畑匡基は[[宇喜多騒動]]における家康の裁定を豊臣政権の弱体化策と捉え、それ以降家康に抱いていた不満から西軍に参加したする<ref>石畑匡基「秀吉死後の政局と大谷吉継の豊臣政権復帰」(『日本歴史』772号、2012年)</ref>。