削除された内容 追加された内容
珍巣項 (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
珍巣項 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
10行目:
京では[[朝廷]]が幕府に見切りをつけて慶応3年10月13日そして14日には[[討幕の密勅]]が薩摩藩と[[長州藩]]に下された。13日に[[密勅]]を賜った薩摩はすぐに行動を開始する。総三は西郷隆盛の意を受けて活動を開始し、三田の薩摩藩邸を根拠地として意思を同じくする[[倒幕]]、[[尊皇攘夷]]論者の浪士を全国から多数招き入れた。彼らは薩摩藩士[[伊牟田尚平]]や[[益満休之助]]の指導を受け、放火や、掠奪・暴行などを繰り返して幕府を挑発した。その行動の指針となったお定め書きにあった攻撃対象は「幕府を助ける商人と諸藩の浪人、志士の活動の妨げになる商人と幕府役人、唐物を扱う商人、金蔵をもつ富商」の四種に及んだ。
 
慶応3年([[1867年]])10月、討幕の密勅を根拠として、西国と東国で同時挙兵する構想が練られていた。相楽たちは関東3か所で挙兵する計画を立てていたが、その後、[[大政奉還]]が実現したことにより密勅は取消された<ref name="gakken">『ビジュアル幕末維新 「日本の夜明け」を目指した激動の時代を追う!!』pp.76-77</ref>。密勅の取消により[[薩摩藩]]は江戸薩摩藩邸宛てに関東での'''攪乱工作の停止'''を指示し、大政奉還の翌日にも「'''鎮静'''」するように念を押している。にもかかわらず、相楽たちは指示をことごとく無視して[[流山]]出ながれやまと萩野山中で挙兵し、いずれも鎮圧されている<ref name="gakken"/>。相楽たちの軍資金は[[豪商]]を襲って得たものであった。相楽たちの挙兵は旧幕府方を刺激し、[[庄内藩]]と旧幕府軍による[[江戸薩摩藩邸の焼討事件|江戸薩摩藩邸焼き討ち事件]]に発展している<ref name="gakken"/。これが、[[鳥羽・伏見の戦い]]のきっかけとなった。なお、当時の西郷の手紙では薩摩藩邸の焼き討ちの結果に狼狽している様が残っており、西郷は浪士隊の行動を掌握し切れていなかった。
 
総三を始めとする28名は辛くも藩邸を脱出し、[[品川宿|品川]]沖に停泊する薩摩藩の運搬船[[翔凰丸]]に乗って[[紀伊国]]に逃れた<ref name="gakken"/>。
16行目:
江戸を脱出した相楽たちは、慶応4年([[1868年]])1月、[[戊辰戦争]]が勃発すると、近江の[[金剛輪寺]]で赤報隊を結成し、赤報隊一番隊は東海道先鋒総督府の指揮下に入り、[[桑名]]への進軍を指令された<ref name="gakken"/>。しかし相楽は、東山道鎮撫総督府への所属替えを希望し、2月上旬には薩摩藩兵の付属になるよう指示を受けていたが、ここでも相楽は独断で[[東山道]]に進んで「御一新」と「旧幕府領の当年分、前年未納分の年貢半減」を布告している<ref name="gakken"/>。年貢半減の布告は朝廷の了解を得ていたが、のちに撤回されている<ref name="gakken"/>。
 
相楽は指示に従わず独立行動を続行し、[[碓氷峠]]を目標に進軍する。相楽たち赤報隊の度重なる独立行動や独断専行を危惧した新政府は赤報隊に帰還を命じたが、相楽たちは命令に従わなかった。これにより、相楽たち赤報隊は官軍の名を利用して沿道から勝手に金穀を徴収し、略奪行為を行う「'''偽官軍'''」と見なされることになる<ref name="gakken"/>。東山道軍は、赤報隊捕縛命令を信州諸藩に通達し、かねてより赤報隊の振る舞いに反感を抱いていた[[小諸藩]]など近隣諸藩が連合を組んで赤報隊を攻撃した。このとき相楽は、今まで無視してきた東山道総督府からの召喚にようやく応じて隊を留守にしていた<ref name="gakken"/>。小諸藩から赤報隊による勝手なきん金策や、ぼう暴行行為をつうされたことにより、し通報されたことにより、出頭した相楽は信濃国[[下諏訪宿]]で捕縛される(さがそう・せきほうたいしりしゅうょううしゅうぞうら)<ref name="gakken"/>。
 
同年3月、下諏訪で処刑。享年30。妻の照はこれを聞き、息子の河次郎を総三の姉に託し、総三の後を追って自殺した<ref name="bakumatsu_135"/>。後に総三の首級は地元出身の[[国学者]]で総三とも親交があった[[飯田武郷]]の手によって盗み出され、秘かに葬られた。