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'''井上 幸彦'''(いのうえ ゆきひこ、[[1937年]][[11月4日]] - )は、[[日本
== 経歴 ==
*[[山梨県]][[甲府市]]出身<ref>『読売年鑑 2016年版』([[読売新聞東京本社]]、2016年)p.252</ref>
*[[山梨県立甲府第一高等学校]]卒業
*1962年(昭和37年) - [[京都大学大学院法学研究科・法学部|京都大学法学部]]卒業後、 [[警察庁]]入庁(同期に[[亀井静香]]、[[鈴木邦芳]]など)
*1963年(昭和38年) - 警察庁[[警備局]]警備第二課
*1965年(昭和40年) - [[北海道警察
*1966年(昭和41年) - [[外務省]][[アジア大洋州局|アジア局]]北東アジア課
*1967年(昭和42年) -
*1968年(昭和43年) - [[広島県警察
*1970年(昭和45年) - 警察庁警備局公安第二課
*1972年(昭和47年) - 警視庁第六[[機動隊|機動隊長]]
*1973年(昭和48年) - [[警視庁公安部]][[外事課|外事第二
*1974年(昭和49年) - 警察庁警備局
*1975年(昭和50年) - 在[[イタリア]][[日本大使館]][[一等書記官]]
*1978年(昭和53年) - [[警察庁長官官房]]会計課理事官
*1980年(昭和55年) - [[警視庁警備部]][[警備課|警備第一課長]]
*1981年(昭和56年) - [[警視庁]][[警務部]]人事第一課長
*1984年(昭和59年) - [[警察庁警備局警備課|警察庁警備局警備課長]]
*1986年(昭和61年) - 警察庁長官官房会計課長
*1988年(昭和63年) -
*1989年(平成元年) - [[千葉県警察]][[本部長]]
*1991年(平成3年) -
*1992年(平成4年) - 警察庁警務
*1994年(平成6年) - [[警察庁次長]]
*1995年(平成7年) - [[警視総監]](第80代)
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[[1995年]]、突如発生した[[地下鉄サリン事件]]に見舞われ、警視庁は日本犯罪史上最悪のテロ事件に対応する使命を急遽担うこととなる。一般市民を狙った無差別毒ガステロという未曾有の大犯罪に対し、井上自身も突如、時の警視総監として警視庁の陣頭指揮を執る立場となった。
当時の主な警察側の対応は、[[東京消防庁|消防]]と連携して現場へ救助隊を派遣、現場採取した毒物を[[科学捜査研究所]]で鑑定といった初動捜査が展開されたが、それ以前に警視総監命令で警視庁に特別対策本部を設置し、自ら陣頭指揮を執る。現場では当時の捜査第一課長・[[寺尾正大]][[警視正]]を筆頭に[[山田正治 (警察官)|山田正治]][[理事官]]、一課数名管理官が緊急動員された。その後、[[上九一色村]]の教団施設の捜査、教団に拉致された被害者の救出が展開されていく。
このテロ事件を受け井上総監は一課長を通し現場の全面捜査指揮を担う。特に[[オウム真理教]]の第7[[サティアン]]のあった上九一色村での捜査は事件発生直後に行われ、山田理事官を現場指揮官に指名し、何百名もの<!--具体的な人数を記した方がいいと思う。-->捜査員を上九一色村に派遣した。この際、県警への根回しやマスコミ調整にも追われる。
遂には[[自衛隊]]にも緊急出動要請をとる刑事事件としては異例中の異例の事態となる。完全武装した[[自衛官]]や、捜査指揮をとる捜査一課理事官・山田警視も自衛隊から提供された迷彩の化学防護服に身を包み完全防備で捜査にあたるその現場は戦場、そのさまはもはやオウムとの戦争であった。
井上は同日[[記者会見]]で都内で[[毒ガス]][[サリン]]事件ひいては無差別テロ発生と公開しオウム真理教が首謀者と全面的に発表。
これを期に検察、法曹界、マスコミも巻き込む一連のオウム騒動の幕開けとなった。
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== 選挙後の検証活動 ==
2003年(平成15年)の[[2003年山梨県知事選挙|山梨県知事選]]に立候補し落選したが、2006年(平成18年)4月30日に支持者が[[山本栄彦]]県政を検証する勉強会「[[ふるさと山梨を考える会]]」を発足させた。その後各種の問題を検証した後、[[横内正明]]に2007年(平成19年)の[[2007年山梨県知事選挙|山梨県知事選]]再出馬を要望。その後、横内は出馬を表明し、選挙において山本を破って当選した。
== 井上幸彦を演じた俳優 ==
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