「チャールズ1世 (イングランド王)」の版間の差分

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第一次内戦は当初、チャールズ1世の甥に当たる[[カンバーランド公]][[ルパート (カンバーランド公)|ルパート]]の働きで互角あるいは王党派が優位であったが、[[1643年]][[9月25日]]に議会派と盟約派が[[厳粛な同盟と契約]]を締結、スコットランドが議会派に加勢し戦況は議会派に傾き始め、[[オリバー・クロムウェル]]率いる[[鉄騎隊]]の活躍により、[[1644年]]7月の[[マーストン・ムーアの戦い]]などで王党派が各地で打ち破られた。1645年6月の[[ネイズビーの戦い]]でチャールズ1世・ルパート率いる国王軍は[[トーマス・フェアファクス (第3代フェアファクス卿)|トーマス・フェアファクス]]を司令官、クロムウェルを副司令官とする{{仮リンク|ニューモデル軍|en|New Model Army}}に決定的な大敗を喫し、拠点を次々と議会派に奪われ、翌[[1646年]]5月にチャールズ1世はスコットランド軍に降伏し第一次内戦は王党派の敗北になり、囚われの身となった<ref name="松村136"></ref><ref>森(1986)、P410 - P411、森(1988)、P320 - P322、今井、P200 - P209、塚田、P136 - P138、P152 - P154、清水、P60 - P64、P69 - P71、P76 - P82、P88 - P96、P99 - P100。</ref>。
 
内戦の最中、チャールズ1世は反乱で背かれたスコットランドとアイルランドから援軍を求め交渉していた。スコットランドを王党派で平定すべく盟約派から王党派に離反したモントローズ伯を侯爵に昇叙、スコットランド総督に任じて帰国させた。モントローズ侯は期待に応え1644年8月に[[アイルランド貴族]]のアントリム伯{{仮リンク|ランダル・マクドネル (初代アントリム侯爵 1645年創設)|en|Randal MacDonnell, 1st Marquess of Antrim (1645 creation)|label=ランダル・マクドネル}}と親戚の{{仮リンク|アラスデア・マッコーラ|en|Alasdair Mac Colla}}と共にスコットランドで挙兵({{仮リンク|スコットランド内戦|en|Scotland in the Wars of the Three Kingdoms}})、1645年には[[インヴァロッヒーの戦い]]([[2月2日]])・[[キルシスの戦い]]([[8月15日]])で連勝しアーガイル侯ら盟約派を追い落として平定に迫ったが、盟約派の反撃に遭い[[9月13日]]の[[フィリップホフの戦い]]で敗れ、スコットランド平定はならなかった<ref group="注">敗北後もモントローズ侯は諦めずゲリラで各地に出没、盟約派との戦いを続けていたが、1646年にスコットランド軍に捕らえられたチャールズ1世が軍解体を命令したためそれに従い、[[ノルウェー]]へ亡命した。ウェッジウッド、P578 - P582、P629、P637。</ref><ref>トランター、P276 - P280、ウェッジウッド、P374 - P378、P426 - P432、P495 - P502、P517 - P518。</ref>。
 
アイルランドでは駐屯軍司令官で[[アイルランド総督 (ロード・レフテナント)|アイルランド総督]]の[[オーモンド伯爵 (アイルランド)|オーモンド侯]][[ジェームズ・バトラー (初代オーモンド公)|ジェームズ・バトラー]]に反乱勢力のアイルランド・カトリック同盟との交渉を任せ、和睦と援軍派遣を期待していたが、宗教の違いとそれぞれの無理な要求で交渉は難航、1643年[[9月15日]]に何とか休戦が成立した。ところが続く和睦交渉は暗礁に乗り上げ<ref group="注">アイルランド同盟はカトリック刑罰法の撤廃を、オーモンド侯はアイルランド同盟が占領したイングランド国教会の領土返還を要求した。この実現が難しい要求で交渉は進まず、援軍欲しさに撤廃に応じるチャールズ1世をオーモンド侯が諫めることもあった。山本、P140 - P141。</ref>、互いの要求を棚上げにして和睦条約が調印されたのは1646年[[3月28日]]と第一次内戦が終わる寸前であり、援軍を求めるにはあまりにも遅過ぎた。しかもこの間にチャールズ1世はオーモンド侯の頭越しにアイルランドへ密使を送ることを計画、密使として派遣され1645年7月にアイルランドに着いた寵臣のグラモーガン伯{{仮リンク|エドワード・サマセット (第2代ウスター侯)|label=エドワード・サマセット|en|Edward Somerset, 2nd Marquess of Worcester}}はオーモンド侯に協力するふりをしてアイルランド同盟と独自に接触した<ref>山本、P136 - P142、ウェッジウッド、P324 - P325、P492。</ref>。
 
更に、11月にアイルランドへ派遣された[[教皇|ローマ教皇]][[インノケンティウス10世 (ローマ教皇)|インノケンティウス10世]]の特使{{仮リンク|ジョヴァンニ・バッティスタ・リヌチーニ|en|Giovanni Battista Rinuccini}}が和睦条約に反対して聖職者や軍人達を動かし、グラモーガン伯もリヌチーニと結びつきアイルランド人に対する土地返還とカトリック寛容を引き換えにした軍事援助の秘密条約実施を申し出た。だがリヌチーニはどちらの条約にも反対、グラモーガン伯は秘密交渉の発覚で逮捕され、チャールズ1世はグラモーガン伯との関与を否定したがアイルランド同盟から不信を抱かれ、オーモンド侯の和睦条約もリヌチーニに扇動された反対派により破棄され、もはやアイルランドからも援軍を期待出来なくなった<ref group="注">その後1649年[[1月17日]]に改めてオーモンド侯とアイルランド同盟は1646年と同様の条件で和睦、障害だったリヌチーニが2月にアイルランドを離れたため両者は手を結んだが、皮肉にも和睦した日はチャールズ1世が処刑される13日前だった。山本、P144。</ref><ref>山本、P142 - P144、ウェッジウッド、P541 - P546、P555 - P559、P617 - P620。</ref>。
 
=== 再起失敗、処刑 ===
[[File:The Execution of Charles I.jpg|thumb|left|チャールズ1世の処刑]]
[[1647年]]11月に一旦[[ワイト島]]へ脱出、ハミルトン公らスコットランド王党派と[[和解契約]]を結んで{{仮リンク|第二次イングランド内戦|en|Second English Civil War}}を勃発させたが、[[1648年]]8月に[[プレストンの戦い (1648年)|プレストンの戦い]]でハミルトン公率いるスコットランド軍({{仮リンク|エンゲージャーズ|en|Engagers}})がクロムウェルの議会軍に大敗、ハミルトン公が捕らえられたため第二次内戦も敗北に終わり(後にハミルトン公は処刑)、11月に再び議会軍に投降した。一方、議会派は戦争終結を巡り国王との妥協を図る[[長老派教会|長老派]]と徹底抗戦の{{仮リンク|独立派 (宗教)|en|Independent (religion)|label=独立派}}が対立、[[12月6日]]の[[プライドのパージ]]で長老派が議会から追放、独立派が残った[[ランプ議会 (イングランド内戦)|ランプ議会]]がチャールズ1世処刑の裁判を進めていった<ref name="松村136"></ref><ref>森(1988)、P411、今井、P213 - P215、塚田、P157 - P159、清水、P123、P126 - P127、P129 - P138。</ref>。
 
1649年[[1月27日]]、裁判によってチャールズ1世の処刑が宣告された。1月30日、自ら[[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]に内装及び天井画を依頼した[[ホワイトホール宮殿]]の[[バンケティング・ハウス]]前で[[公開処刑]]され、チャールズ1世は斬首された<ref name="松村136"></ref><ref>森(1986)、P404 - P406、P411 - P412、今井、P215、清水、P138 - P148。</ref>。彼の最期の言葉は「我は、この堕落した王位を離れ、堕落し得ぬ、人生の極致へと向かう。そこには如何なる争乱も存在し得ず、世界は安寧で満たされているのだ。」(原文"I go from a corruptible to an incorruptible Crown, where no disturbance can be, no disturbance in the World.")であった。([http://anglicanhistory.org/charles/charles1.html 30 January, 1649]).
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* [[松村赳]]・[[富田虎男]]編『英米史辞典』[[研究社]]、2000年。
* [[塚田富治]]『近代イギリス政治家列伝 <small>かれらは我らの同時代人</small>』[[みすず書房]]、2001年。
* [[山本正 (歴史学者)|山本正]]『「王国」と「植民地」 <small>近世イギリス帝国のなかのアイルランド</small>』[[思文閣出版]]、2002年。
* [[清水雅夫]]『<small>王冠のないイギリス王</small> オリバー・クロムウェル<small>―ピューリタン革命史</small>』[[リーベル出版]]、2007年。
* [[シセリー・ヴェロニカ・ウェッジウッド]]著、[[瀬原義生]]訳『イギリス・ピューリタン革命<small>―王の戦争―</small>』[[文理閣]]、2015年。