「全日空羽田沖墜落事故」の版間の差分

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=== 各説 ===
その中で、「目的地への到着を急ぐあまり急激に高度を下げたものの、導入間もない機種の操縦で、予想しなかったほど高度が下がったことにより水面に激突した」、もしくは「高度計を見間違えた」という操縦ミス説や、残骸や遺体の髪の毛に火が走った跡があったため、第3エンジンの不調説<ref>山名正夫「最後の30秒―羽田沖全日空機墜落事故の調査と研究」</ref>(この第3エンジンはもともと第1エンジンとして取り付けられていたもので、事故以前からたびたび異常振動などのトラブルを起こしたため、前年に購入したばかりの機体であるにも関わらずオーバーホールを行った後に第3エンジンとして取り付けられ、オーバーホール後もトラブルを起こしていた)や、「誤ってグランド・[[スポイラー (航空機)|スポイラー]]を立てた」、または「機体の不具合、もしくは設計ミスのためにグランド・[[スポイラー]]が立ったため、機首を引き起こし、主翼から剥離した乱流でエンジンの異常燃焼が起き高度を失い墜落したのではないか」<ref>[[柳田邦男]]著『マッハの恐怖』p313,314 </ref>という説などがあげられた。また、アメリカ側調査団の協力により、この事故に先立ってアメリカで前年[[1965年]]に起きていた同型機による3件の着陸時の事故調査結果も参考にされたものの、製造元のボーイング社の技術員を中心としたアメリカ側調査団は「機体の不具合や設計ミスがあったとは確認されず、操縦ミスが事故原因と推測される」と主張し続けた。
 
また、アメリカ側調査団の協力により、この事故に先立ってアメリカで前年[[1965年]]に起きていた同型機による3件の着陸時の事故調査結果も参考にされたものの、製造元のボーイング社の技術員を中心としたアメリカ側調査団は「機体の不具合や設計ミスがあったとは確認されず、操縦ミスが事故原因と推測される」とされた。
その後の調査では、「操縦ミスによる高度低下」、「第3エンジンの離脱による高度低下」、「スポイラーの誤作動による高度低下」が主に取りざたされた。このような中で、事故調査をめぐり事故技術調査団が紛糾した。事故技術調査団の[[山名正夫]]・[[明治大学]][[教授]]<ref>山名教授は、銀河・彗星といった爆撃機の設計を手がけた設計主任で、彗星や零戦のテスト中の墜落事故において徹底的な事故調査を行った。</ref><!--これ以前は本件に関係する。以降は山名正夫の記事に記載あり。ここでは不要。墓地における“[[人魂]]”の正体を[[メタンガス]]の自然発火であると唱えたことでも知られる人物で、実験にも成功した。</ref> -->が、事故後早い段階から、操縦ミス説を主張する団長・[[木村秀政]][[日本大学]]教授らと対立し、辞任した。これらの事故調査団内の対立と、内幕・事故調査の進展は、当時NHK社会部記者で事故についての取材を行った[[柳田邦男]]の『[[マッハの恐怖]]』に詳細に記されている。
 
その後の調査では、「操縦ミスによる高度低下」、「第3エンジンの離脱による高度低下」、「スポイラーの誤作動による高度低下」が主に取りざたされた。このような中で、事故調査をめぐり事故技術調査団が紛糾した。事故技術調査団の[[山名正夫]]・[[明治大学]][[教授]]<ref>山名教授は、銀河・彗星といった爆撃機の設計を手がけた設計主任で、彗星や零戦のテスト中の墜落事故において徹底的な事故調査を行った。</ref><!--これ以前は本件に関係する。以降は山名正夫の記事に記載あり。ここでは不要。墓地における“[[人魂]]”の正体を[[メタンガス]]の自然発火であると唱えたことでも知られる人物で、実験にも成功した。</ref> -->が、事故後早い段階から、操縦ミス説を主張する団長・[[木村秀政]][[日本大学]]教授らと対立し、辞任した。これらの事故調査団内の対立と、内幕・事故調査の進展は、当時NHK社会部記者で事故についての取材を行った[[柳田邦男]]の『[[マッハの恐怖]]』に詳細に記されている
 
木村団長ら調査団の多数は、「夜間の目視飛行の中で予想以上に高度を下げすぎた」という操縦ミスを事故原因とした方向での草案を作成した。この根拠として、60便は計器飛行による通常の着陸ルートをキャンセルし、目視飛行を行い通常の着陸ルートを東京湾上空でショートカットすることや、この事故に先立ってアメリカで起きていた同型機による着陸時の事故調査結果においても、ボーイング727型機の降下角度がプロペラ機のみならず、他のジェット機に比べても急であることに対する操縦員の不慣れによる操縦ミスが墜落原因とされたこと、さらに同型機は全日空が導入してまだ1年程度しかたっていない新鋭機であるだけでなく、同型機は全日空にとって初のジェット機であったため慣熟が行き届いていなかったことも指摘された。
 
しかし、航空局航務課は、木村団長の指示に反し、パイロットミスの可能性を否定し、残骸にさまざまな不審な点があり機体に原因があるという方向で『第一次草案』をまとめ、1968年(昭和43年)44月26日の会議に提出した。<ref>『マッハの恐怖』p.243-248</ref>航務課調査官・楢林一夫が第3エンジンの機体側取り付け部に切れたボルトによる打痕が残っていたこと、第3エンジンが機体から離脱していたことから、取りつけボルトの疲労破壊説を報告していた。楢林一夫は調査団、航空局上層部と対立したため2年後に退官する。<ref>[[藤田日出男]]『あの航空機事故はこうして起きたか』(新潮社)</ref>『第一次草案』で指摘された、第3エンジンの計器だけが他のエンジンと違う値を示していること、第3エンジンの消火レバーを引いた痕跡があること、操縦室のスライド窓操作レバーが開になっており窓が離脱していること<ref>[[藤田日出男]]『あの航空機事故はこうして起きた』(新潮社)</ref>、後部のドアの1つのレバーが開になっていること、着陸前であるにもかかわらず[[シートベルト]]を外している乗客が多数おり、乗客によって姿勢が異なることや(当時はシートベルトの安全性が認識されておらず、締めないままの乗客が多かった)、後続の日航機と丸善石油従業員が一瞬の火炎を確認しており、遺体の一部に軽度のやけどの跡があること等の不審な点については、「原因は不明であり、はっきりしていない。揚収時に操作された可能性もある」などと修正された。
 
そうした中、1968年7月21日に日本航空の727-100型機 (JA8318) で、本来は接地後にしか作動しないグランド・スポイラーが飛行中に作動するトラブルが発生し、その原因が機体の欠陥にあることが判明した。これを受け、事故機でもグランド・スポイラーが作動した可能性の調査が行われ、山名教授は模型による接水実験と残骸の分布状況から接水時の姿勢を推測し、迎え角が大きくなると主翼翼根部で失速が起き、エンジンへの空気の流れが乱れ異常燃焼を起こすことを風洞実験によって確かめ、「機体の不具合、もしくは設計ミスのためにグランド・スポイラーが立ったため、機首を引き起こし、主翼から剥離した乱流でエンジンの異常燃焼が起き高度を失い墜落したのではないか」というレポートを様々な実験データと共に調査団に報告した。しかし、最終報告書案ではそれらを取り上げずに終わった。最終報告書がまとめられるまでの間に提出された5件の草案の提出日は、次の通りである。
 
*第1次案 1968年4月26日
*第2次案 1968年6月6日
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*最終報告書 1970年9月29日
 
ただ、同様の操縦ミスが墜落の原因となったことは他にも多く起きていたものの、第3エンジンの脱落が原因の墜落や、グランド・スポイラーが異常作動し墜落したという事故は、この事故以外にはボーイング727において皆無であった。いずれにしてもこうした対立や決定的な原因を見つけられずに事故調査報告書の決定までは約4年を要し、その間ずっと事故機の残骸は羽田空港の格納庫の一角に並べられたままになっていた。
 
== 教訓 ==