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== 第1次河東一乱 ==
その結果、東国においては今川氏と北条氏と武田氏が三つ巴の抗争を続けた。しかし、大永6年(1526年)に北条氏とともに駿東郡に侵入した武田軍を撃退したのを機に武田氏との抗争は収束して[[今川氏輝|氏輝]]期に向かっていく。これに対して北条氏は享禄3年(1530年)と天文4年(1535年)に甲斐に出兵している。武田氏はこれに対抗するために武蔵国において北条氏と対峙していた扇谷上杉家との同盟を図り、[[上杉朝興]]の娘が甲斐国守護[[武田信虎]]の嫡男・[[武田信玄|晴信]](信玄)の室となるが間もなく死去している。
 
今川氏では今川氏輝死後の後継者争いの[[花倉の乱]]を制し、天文5年([[1536年]])に当主となった[[今川義元]]は翌天文6年([[1537年]])2月に甲斐国守護[[武田信虎]]の娘である[[定恵院]]を正室に迎え、[[甲駿同盟]]が強化された。
 
北条氏は甲相国境において武田方と抗争していたため、甲駿同盟の成立を駿相同盟の破綻とみなした北条家当主の[[北条氏綱|氏綱]]は、2月下旬に駿河へ侵攻する。義元は軍勢を出して氏綱の軍勢を退けようとしたが、氏綱は[[富士川]]以東の地域(河東)を占拠した。氏綱は、今川家の継承権争いで義元と反目していた[[遠江国|遠江]](静岡県西部)の[[堀越氏]](氏綱娘が[[堀越貞基]]室)、[[井伊氏]]等と手を結び、今川を挟み撃ちにした。これによって義元の戦力は分断されてしまい、信虎と上杉朝興は義元に援軍を送ったものの河東から北条軍を取り除くことは出来なかった。しかも、上杉朝興は4月に急逝して幼少の[[上杉朝定 (扇谷上杉家)|朝定]]が継承した混乱に乗じて、氏綱は兵を扇谷上杉家の本拠である[[河越城]]に向けてこれを攻め落としてしまった。今川・扇谷上杉両家は勢力圏を縮小させてしまい、連合軍の大敗に終わったと言える<ref>池上(黒田編:2018年)、P358-359</ref>。
 
天文10年には甲斐で武田信虎が駿河へ追放され、嫡男の[[武田信玄|晴信]](信玄)が当主となり[[信濃侵攻]]を開始する。相模でも氏綱が死去し[[北条氏康|氏康]]が家督を継承。氏康は河東における今川氏との対峙と平行して北関東への進出を企図し、利害が一致した武田北条間で[[甲相同盟]]が成立している。
 
== 第2次河東一乱 ==