「ビールーニー」の版間の差分

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[[ファイル:Lunar eclipse al-Biruni.jpg|thumb|right|ビールーニーによって描かれた月の満ち欠け(月相)における大地から見た太陽光によって生じる光っている部分と影の部分との対応関係を示した図。右のやや大きめの円が[[太陽]]。左の大円の周囲に配された小円は[[地球]]を公転する[[月]]のそれぞれ位置を示し、赤い直線が陽光などの光線を表す。『占星術教程の書』(ペルシア語版)より]]
'''アブー・ライハーン・ムハンマド・イブン・アフマド・アル=ビールーニー・アル=フワーリズミー'''({{lang|ar-Ltn|Abū Rayḥān Muḥammad ibn Aḥmad al-Bīrūnī al-Khwārizmī}}, [[973年]][[9月4日]]/[[9月5日]] - [[1048年]][[12月13日]])は、[[10世紀]]の[[ホラズム]]出身の学者{{sfn|矢島|1977|p=201}}。数学、天文、地理、歴史にわたって100篇を超える著書があったと見られる{{sfn|矢島|1977|p=201}}。現伝するのはそのうち30篇弱{{sfn|矢島|1977|p=201}}。代表的な著書としては、歴史書『過去の足跡』、地理書『インド誌』、[[精密科学]]{{efn|古代~中世の[[科学史]]の分野においては、数学、天文学、占星術を包摂する概念。}}書『占星術要約』、百科全書『マスウード宝典』があり{{sfn|矢島|1977|p=201}}、[[20世紀]]前半のアラビア科学研究における権威{{仮リンク|ジョージ・サートン|en|George Sarton|label=}}は{{sfn|矢島|1977|p=7}}、[[11世紀]]前半を「ビールーニーの時代」と呼んだ{{sfn|矢島|1977|p=201}}。
 
==生涯==