「レオポルド3世 (ベルギー王)」の版間の差分

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=== 即位と王妃の死 ===
父アルベール1世の遭難死を受けて、[[1934年]][[2月23日]]に即位した。レオポルド3世は即位式において、宣誓だけでなく挨拶も仏蘭両言語で行った<ref>[[#松尾 2014|松尾 2014]].p 103</ref>
 
[[1935年]][[8月29日]]、国王夫妻が[[スイス]]のキュスナハトにある別荘近くの道をドライブ中、レオポルド3世が運転を誤り車が[[ルツェルン湖]]に転落した。王妃はこの事故で死亡した。父と妃を相次いで失ったことに加え、同時期には王弟シャルルが平民の女性と結婚問題があり、レオポルド3世の反対により断念に至ったことから、関係が著しく悪化していた<ref>[[#松尾 2014|松尾 2014]].p 108-109</ref>。
レオポルド3世は即位式において、宣誓だけでなく挨拶も仏蘭両言語で行った<ref>[[#松尾 2014|松尾 2014]].p 103</ref>。
 
同年12月、英国王[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]より[[ガーター勲章]]を授与された<ref>[[#君塚 2014|君塚 2014]].p 229</ref>。
[[1935年]][[8月29日]]、国王夫妻が[[スイス]]のキュスナハトにある別荘近くの道をドライブ中、レオポルド3世が運転を誤り車が[[ルツェルン湖]]に転落した。王妃はこの事故で死亡した。
 
父と妃を相次いで失ったことに加え、同時期には王弟シャルルが平民の女性と結婚問題があり、レオポルド3世の反対により断念に至ったことから、関係が著しく悪化していた<ref>[[#松尾 2014|松尾 2014]].p 108-109</ref>。
 
=== ファシズム台頭と独自外交 ===
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しかし、レオポルド3世は中立への行き過ぎた考えから「ベルギーを守る/戦場にしない」ことにこだわり、国境にのみ常駐を認め、ベルギー領内で両国の兵士を見かけたら射殺すると表明した<ref name="matsuo2014-109"/>。これに対し、フランスの[[ポール・レノー]]首相や、英国の[[ウィンストン・チャーチル]]首相は、ともに国王の態度に呆れ、批判している<ref name="matsuo2014-110">[[#松尾 2014|松尾 2014]].p 110</ref>。また、国王は、これを契機にベルギー国内で諜報活動の可能性のあるベルギー人及び外国人(独伊のみならず英仏も含む)を検挙させ、これにはドイツから迫害を逃れて亡命したユダヤ人も含まれた<ref name="matsuo2014-110"/>。
 
==== ベルギーの戦いと降伏 ====
{{seealso|ベルギーの戦い}}
[[1940年]][[5月10日]]、[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]が宣戦布告無きまま、ベルギーに侵攻した([[ナチス・ドイツのフランス侵攻]]の第一段階である『黄色作戦』)。初日に[[エバン・エマール要塞の戦い]]でベルギー最大の要塞を陥落させられると、ベルギー軍は撤退し、国王は[[ダンケルク]]での抗戦を呼びかけ、兵士を鼓舞した<ref name="matsuo2014-111">[[#松尾 2014|松尾 2014]].p 111</ref>。
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オランダやベルギーがドイツ軍([[A軍集団]])低地地方で迎撃する間に、ドイツ軍([[B軍集団]])はベルギー南部~フランス東部の[[アルデンヌ]]高地を越えて侵攻したため、白・仏・英各軍は分断された。[[5月12日]]、[[アニューの戦い]]で、白仏軍と独軍による大規模な戦車戦で、ベルギーは「驚くほどの勇敢さ」をもって抗戦し、ドイツの進撃を遅延させて、[[ダンケルク]]からの英派遣軍の大陸撤退([[ダイナモ作戦]])を可能にした<ref name="matsuo2014-111"/>。
 
[[5月25日]]、[[ウェスト=フランデレン州|西フランデレン]][[トルホウト]]の{{仮リンク|ウィネンダル城|en|Wijnendale Castle}}で、御前会議が開かれた<ref name="matsuo2014-112">[[#松尾 2014|松尾 2014]].p 112</ref>。対独勝利の可能性があると信じた政府はフランスで亡命政府を組織して抗戦しようとした一方、国王は無条件降伏によりドイツ中心の新秩序の中でベルギーの立場を考えようとし、意見は一致しなかった<ref name="matsuo2014-112"/>。同日、英国王[[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]に宛てた親書では、政府及び軍の最高責任者としてベルギーに留まることと、24日にジョージ6世が行った徹底抗戦を呼びかける演説に感銘を受けた旨を記した<ref>[[#君塚 2014|君塚 2014]].p 225-226</ref>。ジョージ6世は政府と相談の上、亡命して抗戦するよう激励した<ref name="kimizuka2014-227">[[#君塚 2014|君塚 2014]].p 227</ref>。
 
[[5月2827日]]、レオポルド3世はドイツとの交渉を開始し<ref name="kimizuka2014-227"/>、翌[[5月28日]]にレオポルド3世は降伏を宣言し、する。以後{{仮リンク|ラーケン宮殿|en|Royal Palace of Laeken}}に幽閉された<ref>[[#松尾 2014|松尾 2014]].p 112-113</ref>。幽閉中の[[1941年]]、[[リリアン・バエル]]と再婚するが、彼女が平民であったため王妃とは認められることは無かった。
 
一方の閣僚達はフランス、さらに[[ロンドン]]へ亡命し、レオポルド3世を{{仮リンク|ベルギー亡命政府|en|Belgian government in exile}}の国王とは認めないと宣言した<ref name="matsuo2014-112"/>。チャーチル英首相や英国世論は、レオポルド3世の降伏を裏切りとして非難した<ref name="kimizuka2014-227"/>。しかし、ジョージ6世は、電撃戦で攻撃を受け亡命政権を樹立した[[オランダ王国]]、[[ルクセンブルク大公国]]がともに女性君主<ref group="注釈">[[ウィルヘルミナ (オランダ女王)|ウィルヘルミナ女王]]及び[[シャルロット (ルクセンブルク大公)|シャルロット女大公]]</ref>で軍の最高指揮官でなかったのに対し、レオポルド3世が最高指揮官として兵士や国民を見捨てて亡命できない事情を理解し、[[ガーター勲章]]を含む栄典を剥奪しなかった<ref>[[#君塚 2014|君塚 2014]].p 228</ref>。
 
=== 言語問題と政治宣言 ===
{{節stub}}
[[1944年]][[6月6日]]、[[ノルマンディー上陸作戦]]によって[[西部戦線 (第二次世界大戦)|欧州戦線]]は転機を迎え、[[パリの解放]]を経て、9月2日に連合軍がベルギーへ侵攻({{仮リンク|ベルギーの解放|en|Liberation of Belgium}})。[[9月21日]]、ベルギー亡命政府は王弟[[シャルル・ド・ベルジック|シャルル王子]]([[フランドル伯]])を摂政に建てることを宣言した<ref name="matsuo2014-120">[[#松尾 2014|松尾 2014]].p 120</ref>。ベルギー全土がドイツから解放されたのは[[11月3日]]だった。国王一家はドイツ及び[[ナチス・ドイツ統治下のオーストリア|オーストリア]]に移送された後、1945年5月に米軍によって解放された<ref>[[#君塚 2014|君塚 2014]].p 234</ref>
 
戦局が[[連合国]]優勢になりつつある1944年春、レオポルド3世は単独で政治宣言を起草していたが、連合軍が勝利した場合でも連合国に与することを拒否していた<ref name="matsuo2014-120"/>。また同宣言では、戦後ベルギーの課題が言語問題にあるとの危機感を示し、フランデレンとワロンを対等に扱い、かつ二言語を公用語とする必要性についても触れていた<ref name="matsuo2014-120"/>。
 
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しかし、過去に仏独間の戦争でベルギーが戦場となった経験から、レオポルド3世は様々な準備を1930年代の内には終えていた。だが、ドイツ軍の[[電撃戦]]の前に[[イギリス]]の派遣軍や[[フランス軍]]と連携することが出来なかった。
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=== 退位後 ===
退位後のレオポルド3世はアマチュアの社会人類学者として世界中を旅した。[[セネガル]]を訪れた際にはフランスの非植民地化プロセスを激しく批判した。
 
[[1952年]][[2月6日]]、親友でもあった英国王ジョージ6世が崩御する。しかし大戦中の経緯から、英国内における反レオポルド感情はベルギー国内に優るとも劣らぬものだったため、[[2月15日]]に行われた国葬に参加することはできなかった<ref>[[#君塚 2014|君塚 2014]].p 235</ref>。
 
1983年、ウォルウェ=サン=ランベールで死去した。[[ラーケン]]の[[ノートルダム・ド・ラーケン教会]]にアストリッド王妃と共に埋葬された。
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== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
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==参考文献==
*{{Cite book |和書 |author=[[松尾秀哉]] |title=物語 ベルギーの歴史|publisher=[[中央公論社]] |series=[[中公新書]]|date=2014-8|isbn=978-4121022790|ref=松尾 2014}}
* {{Cite book|和書|author=[[君塚直隆]]|date=2014年(平成26年)|title=女王陛下のブルーリボン-英国勲章外交史-|publisher=[[中央公論新社]]|series=中公文庫 |id=ISBN 978-4122058927|ref=君塚 2014}}