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== 経歴 ==
キューバに生まれ、{{by|1960年}}に17歳で[[シンシナチ・レッズ]]に入団。{{by|1964年}}[[7月26日]]に大リーグデビュー。{{by|1967年}}に156試合に出場して26本塁打、102打点を記録しレギュラーに定着すると、持ち前の打撃で主力打者となる。この年[[MLBオールスターゲーム]]初出場を果たし、MVPに選ばれた。{{by|1970年}}には打率.317、40本塁打、129打点といずれも自己最高の成績を残す。
[[1970年代]]のレッズは「[[ビッグレッドマシン]]」の異名をとる最強チームの1つで、[[アメリカ野球殿堂]]入りの名監督[[スパーキー・アンダーソン]]の下、大リーグ最多安打記録保持者の[[ピート・ローズ]](三塁手)や、いずれも後に殿堂入りした[[ジョー・モーガン]](二塁手)、[[ジョニー・ベンチ]](捕手)、そして強打者[[ジョージ・フォスター]]や名遊撃手[[デーブ・コンセプシオン]]等のスター選手を擁し、[[1975年のワールドシリーズ|9751975年]]、[[1976年のワールドシリーズ|1976年]]と2年連続で[[ワールドシリーズ]]制覇を果たした。
一塁の定位置を若い[[ダン・ドリーセン]]に譲り、{{by|1977年}}には[[ワシントン・ナショナルズ|モントリオール・エクスポス(現在のワシントン・ナショナルズ)]]に交換[[トレード]]で移籍。これはビッグレッドマシン解体の始まりで、その後先述の選手もベンチとコンセプシオンを除いてこの後数年の間に立て続けに移籍。なお、1970年から{{by|1979年}}までの10年間で954打点を記録したが、これは大リーグ全体でチームメイトのベンチに次いで2位であった。さらに{{by|1980年}}には[[ボストン・レッドソックス]]に移籍。{{by|1983年}}には[[フィラデルフィア・フィリーズ]]に移籍し、ここではかつてのチームメイトのローズ、モーガンと共に地区優勝・リーグ優勝を果たし[[1983年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]に出場するが、[[ボルチモア・オリオールズ]]に敗れる。
{{by|1984年}}には古巣のレッズに復帰。翌{{by|1985年}}に監督兼任選手としてレッズに復帰したローズ監督の下、{{by|1986年}}までプレイし、現役引退。