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12月21日に伊56(目標地点アドミラルチー諸島ゼアドラ―港)、12月25日に伊47(フンボルト湾)、12月30日に伊36(ウルシー)と伊53(コッソル水道)と伊58(グアム島アプラ港)、翌年1月9日に伊48(ウルシー)が、それぞれ内海西部を出撃した<ref name="叢書九八396" />。伊56は警戒厳重のため攻撃機会がなく、伊47は1月12日に四基発進(判定:大型輸送船4隻轟沈)、伊53は同日三基発進(大型輸送船2隻轟沈)、伊58は四基発進(特設空母1、大型輸送船3隻轟沈)、伊36は四基発進(有力艦4隻轟沈)、伊48は未帰還<ref name="叢書九八486伊48">[[#叢書98|戦史叢書98巻]]、486頁「伊48」</ref>(油槽船1隻・巡洋艦1隻・大型輸送船2隻轟沈)となった<ref name="叢書九八396" />。
総合戦果判定は特空母1、大型輸送船9、油槽船1、巡洋艦1、有力艦6、合計18隻轟撃沈というものだったが、戦後調査によれば該当する記録はない<ref name="叢書九八396" />(戦後確認された戦果は“戦果”の項目の表の通り)。金剛隊の回天作戦は、泊地攻撃の困難さを改めて浮き彫りにした<ref name="叢書九八396" /><ref name="叢書九八422">[[#叢書98|戦史叢書98巻]]、422-424頁「回天の航行艦襲撃」</ref>。
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菊水隊の攻撃によりアメリカ軍泊地の防御が予想以上に強化されたことを知った日本軍は、黒木、仁科の進言どおりに水上航走艦を狙う作戦へと変更した。1945年2月19日には[[硫黄島]]にアメリカ軍が上陸して[[硫黄島の戦い]]が始まり、侵攻部隊を海上で叩く必要に迫られたことも戦術変更の大きな要因となった。また、潜水中の潜水艦より回天に乗艇できる技術的な改善も加えられた<ref>{{Harvnb|オネール|1988|p=257}}</ref>。しかしアメリカ海軍も、侵攻部隊の輸送船団は厳重な泊地とは異なって日本軍潜水艦の格好の目標となることを懸念して、大西洋上でドイツ軍[[Uボート]]対策で絶大な効果を上げていた護衛空母と駆逐艦で編成された{{仮リンク|ハンター・キラーグループ|en|Hunter-killer Group}}で護衛していたので、見るべき戦果もなく回天を搭載した母艦が次々と撃沈されていった<ref>{{Harvnb|オネール|1988|p=258}}</ref>。アメリカ軍は硫黄島を攻略すると、4月1日には[[沖縄本島]]に上陸し[[沖縄戦]]が開始されて、その侵攻部隊に対しても回天部隊は出撃したが、より対策を強化したアメリカ軍艦隊相手には損害を重ねるだけとなった<ref>{{Harvnb|図説特攻|2003|p=130}}</ref>。
金剛隊以降、硫黄島や沖縄支援のために出撃した回天部隊は下記となる<ref>{{Harvnb|図説特攻|2003|p=131}}</ref>。
:{| class="wikitable"
||'''部隊名'''||'''潜水艦名'''||'''出撃日'''||'''作戦海域'''||'''状況'''
|-
||千早隊||[[伊号第三百六十八潜水艦|伊368潜]]||1945.2.20||硫黄島海域||沈没
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||千早隊||[[伊号第三百七十潜水艦|伊370潜]]||1945.2.20||硫黄島海域||沈没
|-
||千早隊||[[伊号第四十四潜水艦|伊44潜]]||1945.2.22||硫黄島海域||
|-
||神武隊||[[伊号第五十八潜水艦|伊58潜]]||1945.3.1||硫黄島海域||作戦中止帰還
|-
||神武隊||[[伊号第三十六潜水艦|伊36潜]]||1945.3.1||硫黄島海域||作戦中止帰還
|-
||多々良隊||[[伊号第四十七潜水艦|伊47潜]]||1945.3.29||沖縄海域||
|-
||多々良隊||[[伊号第五十六潜水艦|伊56潜]]||1945.3.31||沖縄海域||沈没
|-
||多々良隊||伊58潜||1945.3.31||沖縄海域||
|-
||多々良隊||伊44潜||1945.4.3||沖縄海域||沈没
|-
||天武隊||伊47潜||1945.4.20||沖縄東方海域||
|-
||天武隊||伊36潜||1945.4.22||沖縄東方海域||
|-
||振武隊||[[伊号第三百六十七潜水艦|伊367潜]]||1945.5.5||沖縄東方海域||
|-
||轟隊||[[伊号第三百六十一潜水艦|伊361潜]]||1945.5.27||沖縄東方海域||沈没
|-
||轟隊||[[伊号第三百六十三潜水艦|伊363潜]]||1945.5.28||ウルシー沖縄線上||
|-
||轟隊||伊36潜||1945.6.4||マリアナ東方海域||
|-
||轟隊||伊165潜||1945.6.15||マリアナ東方海域||沈没
|-
|}
[[File:Kaiten Type 1 launch test from starboard of Japanese cruiser Kitakami.jpg|thumb|right|250px|軽巡「北上」に搭載された回天一型の試験発射]]
[[1945年]]3月以降は[[本土決戦|敵本土上陸]]に備えて、陸上基地よりの出撃や施設設営とともに、スロープを設けられた旧式の[[巡洋艦]]([[北上 (軽巡洋艦)|北上]])や、[[松型駆逐艦]]、[[一等輸送艦]]からの発射訓練も行われたが、戦地へ輸送中に撃沈されたり、出撃前に終戦となった。
終戦を迎えたあと、必死を要求される特攻兵器のイメージから「強制的に搭乗員にさせられた」「ハッチは中からは開けられない」<ref>[[#南海の死闘]]189頁(著者は竹乗組員、回天戦訓練に従事)</ref>「戦果は皆無」などの作戦に対する否定的な面が強調され、ときには事実と異なる情報が流布されたこともあった。回天のハッチは中から手動で開けられ、外からも工具を必要とするものの開閉できた。これは脱出装置が装備されていないこととの混同が発生していると思われる。回天の搭乗員は全てが志願者であった。ただし、当時の日本軍将兵にとって特攻隊への志願を拒否することは著しく困難であったことも考え合わせる必要がある。▼
=== 多聞隊の成功 ===
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[[坂本雅俊]](回天特攻要員)は「覚悟はしていたが見た時はぎょっとした」という。<ref>『証言記録 兵士たちの戦争3』NHK「戦争証言」プロジェクト、NHK出版194頁</ref>[[竹林博]](回天特攻要員)は「戦争の再現は望まないし美化もしないし命も粗末に考えないが、日本のためどんなものでも行くという思いで殉じた若者がいたことを正しく歴史に刻みこんでほしい」と戦後語っている<ref>神立尚紀『戦士の肖像』文春ネスコ246頁</ref>。
▲終戦を迎えたあと、必死を要求される特攻兵器のイメージから「強制的に搭乗員にさせられた」「ハッチは中からは開けられない」<ref>[[#南海の死闘]]189頁(著者は竹乗組員、回天戦訓練に従事)</ref>「戦果は皆無」などの作戦に対する否定的な面が強調され、ときには事実と異なる情報が流布されたこともあった。回天のハッチは中から手動で開けられ、外からも工具を必要とするものの開閉できた。これは脱出装置が装備されていないこととの混同が発生していると思われる。回天の搭乗員は全てが志願者であった。ただし、当時の日本軍将兵にとって特攻隊への志願を拒否することは著しく困難であったことも考え合わせる必要がある。
=== 基地 ===
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* {{Cite book |和書 |editor=「[[丸 (雑誌)|丸]]」編集部 編 |year=2011 |title=特攻の記録 「十死零生」非情の作戦 |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=978-4-7698-2675-0 |ref={{SfnRef|特攻の記録|2011}} }}
* {{Cite book |和書 |author=[[サミュエル・モリソン|サミュエル・E・モリソン]] |others=[[大谷内一夫]](訳)|year=2003 |title=モリソンの太平洋海戦史 |publisher=光人社 |isbn=4769810989 |ref={{SfnRef|モリソン|2003}} }}
* {{Cite book |和書 |author=森山康平 |author2=太平洋戦争研究会(編) |year=2003 |title=図説 特攻 太平洋戦争の戦場 |publisher=河出書房新社 |series=ふくろうの本 |isbn=4309760341 |ref={{SfnRef|図説特攻|2003}} }}
== 脚注 ==
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