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この時代、すでに日本には[[法相宗]]や[[華厳宗]]など[[南都六宗]]が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄は日本へ帰国後、比叡山'''[[延暦寺]]'''に戻り、後年[[円仁]](慈覚大師)・[[円珍]](智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を説き、[[奈良仏教]]と論争が起こる。特に法相宗の[[徳一]]との[[三一権実諍論]]は有名である。また、鑑真和上が招来した[[具足戒]]を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、[[大乗仏教|大乗]][[戒壇]]を設立し、[[大乗戒]]([[円頓戒]])を受戒した者を天台宗の僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問・修行を修めるという革新的な最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇の勅許が下り、名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。
 
平安時代中期には、第18世座主の[[良源]]によって諸堂の再建と整備、それに教学の振興が図られ、さらに弟子の[[源信]]が著した「[[往生要集]]」が、後の[[浄土教]]の発展につながった。平安時代末期から鎌倉時代初めにかけては、[[法然]]や[[栄西]]、[[親鸞]]、[[道元]]、[[日蓮]]といった各宗派の開祖たちが比叡山で学んだことから、比叡山は「日本仏教の母山」と呼ばれるようになった。16世紀、延暦寺は[[織田信長]]の焼き討ちに遭い、宗勢に陰りが見えたが、江戸時代に入ると[[天海]]が立て直し、特に[[寛永寺]]は西の比叡山に対して東叡山と呼ばれ、影響力は全国に及んだという<ref>http://www.tendai.or.jp/rekishi/index.php</ref>。
 
=== 天台密教 ===