「アンドルー・ボナー・ロー」の版間の差分

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|元首 = [[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]
|国旗2 = UK
|職名2 = {{仮リンク|[[植民地大臣 (イギリス)|label=植民地大臣|en|Secretary of State for the Colonies}}]]
|内閣2 = [[ハーバート・ヘンリー・アスキス|アスキス]][[挙国一致内閣]]
|就任日2 = [[1915年]][[5月27日]]
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大戦の勃発のため、アスキス首相の求めに応じて戦時中は政党間論争を挑まないことを決定した。ただしこの段階ではまだ政府と保守党の連合が成ったわけではなく、あくまで休戦という消極的な関係に留まった。保守党平議員は自党の現状を「政治的軟禁状態」と考え、ボナー・ローの誓約に反発した。自由党政府の様々な失策の影響で1915年5月にその不満は爆発した。限界を感じたボナー・ローはアスキス首相と交渉して自由党と保守党の大連立の[[挙国一致内閣]]を成立させた<ref>[[#バトラー(1980)|バトラー(1980)]] p.57-60</ref>。
 
挙国一致内閣の主導権は自由党が握っており、保守党はそれほど良い閣僚ポストの配分を受けられなかった。党首ボナー・ローも{{仮リンク|[[植民地大臣 (イギリス)|label=植民地大臣|en|Secretary of State for the Colonies}}]]として入閣したに留まった<ref name="バトラー(1980)60">[[#バトラー(1980)|バトラー(1980)]] p.60</ref>。
 
その後徴兵制導入賛成でボナー・ローら保守党と自由党のロイド・ジョージの距離が縮まった。[[1916年]]12月にアスキスとロイド・ジョージが決裂するとロイド・ジョージを支持し、そのためにアスキスは総辞職することになった<ref>[[#バトラー(1980)|バトラー(1980)]] p.60-63</ref>。1916年12月5日に国王[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]より組閣の大命を受けたが、アスキスとロイド・ジョージの支持が必要である旨奉答した。しかしアスキスはボナー・ローへの協力もロイド・ジョージへの協力も拒否していたため、結局大命を拝辞することになり、12月7日にロイド・ジョージが組閣の大命を受けることになった<ref name="中村(1978)187">[[#中村(1978)|中村(1978)]] p.187-196</ref>。
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{{s-aft|after={{仮リンク|ハドソン・ケアリー (初代デヴォンポート子爵)|label=ハドソン・ケアリー|en|Hudson Kearley, 1st Viscount Devonport}}}}
{{s-bef|before={{仮リンク|ルイス・ヴァーノン・ハーコート|label=ルイス・ハーコート|en|Lewis Vernon Harcourt, 1st Viscount Harcourt}}}}
{{s-ttl|title={{flagicon|UK}} {{仮リンク|[[植民地大臣 (イギリス)|label=植民地大臣|en|Secretary of State for the Colonies}}]]|years=[[1915年]] – [[1916年]]}}
{{s-aft|after={{仮リンク|ウォルター・ロング (初代ロング子爵)|label=ウォルター・ロング|en|Walter Long, 1st Viscount Long}}}}
{{s-bef|before=[[レジナルド・マッケンナ]]}}