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[[1667年]]の[[ネーデルラント継承戦争]]においては軍司令官として指揮統率し、フランス軍を[[ライン川]]対岸に撃退することに成功した。[[オランダ侵略戦争]]にも参戦しフランス軍とドイツで交戦、[[1673年]]ではテュレンヌを振り切り北上、南下した[[オランダ総督]][[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィレム3世]](後の[[イングランド王国|イングランド]]王ウィリアム3世)と合流して[[ボン]]を落とし、[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]に駐屯したフランス軍を撤退させた。特に1673年の会戦においては[[機動]]の模範として後の[[軍事学者]]からその[[戦術]]が高く評価された。その後の余生は戦場に赴くこともなく、オーストリア軍の改革と趣味の研究に費やし、1680年に死去した。息子のレオポルト・フィリップもオーストリア軍の将軍として仕えた。
 
[[イタリア海軍]]の[[ライモンド・モンテクッコリ級軽巡洋艦]]及び[[ライモンド・モンテクッコリ (軽巡洋艦)|同名のネームシップ]]は彼にちなんで命名された。
 
== 参考文献 ==