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[[好太王碑|広開土王碑]]によれば、「新羅は高句麗の属民であったが、倭が391年に百残・[[伽耶|加羅]]・新羅を臣民となした」とあり、上代の時期に日本の属国になっていたことが窺える。
 
また、[[倭の五王]]のうち珍王と[[済|済王]]が、[[宋 (南朝)|南朝宋]]の[[文帝 (南朝宋)|文帝]]から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍」という称号を要求している記述がある<ref>[[宋書]]</ref>。
 
451年には、[[宋 (南朝)|南朝宋]]の[[文帝 (南朝宋)|文帝]]が倭国の[[済|済王]]を、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍」に任命する。
 
479年には、 [[斉 (南朝)|南斉]]の[[蕭道成|高帝]]は、倭国の[[武 (倭王)|武王]]を、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事鎮東大将軍倭王」に任命している。
 
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