「王殺し」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Asibumi (会話 | 投稿記録)
m →‎概略: 内容を簡潔化
6行目:
ヨーロッパでは、[[古代]]においては宗教的意味をもって王を殺害する習慣があったとする説がある。これは、王が本来人間の身でありながら、[[宇宙]]の秩序を司る存在として君臨していたことに由来し、そのための能力を失った王は殺害して新たな王を擁立して秩序を回復させる必要があると考える、神秘主義的な古代概念である。[[ジェームズ・フレイザー]]の『[[金枝篇]]』の中で[[ローマ]]の逃亡[[奴隷]]の祭司長である「森の王」の殺害を取り上げている。
 
しかし、[[中世]]の[[封建制|封建社会]]では王(あるいは君主)を頂点とするヒエラルキーが完成し、[[近世]]の[[絶対主義]]の時代には[[教会]]とも結びついて、[[王権神授説]]を主張するようになったので、王を殺すことは道義的にも宗教的にも最大の[[タブー]]とされた。王の暗殺を企てた容疑を受けた者は、最大の[[苦痛]]を味わわせるための[[拷問]]処刑がしかるべきとされた。フランスの[[ブルボン朝]]では[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]暗殺犯や[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]暗殺未遂犯に対して[[八つ裂きの刑#フランス|残虐な方法で八つ裂き刑]]を行って見せしめとした。
 
ところが[[市民革命]]の時代には、宗教の呪縛が緩み、[[社会契約]]上の市民の権利意識が向上したので、「王殺し」が革命派によって旧体制との決別の意味で象徴的に用いられるようになった。