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* 施肥反応(適切に肥料を与えた場合の収量増加)が他の作物に比べて高く、反対に無肥料で栽培した場合でも収量の減少が少ない<ref name="sasaki"/>。
* 水田の場合には野菜・魚介類の供給源にもなり得た(『史記』貨殖列伝の「稲を飯し魚を羹にす……果隋蠃蛤、賈を待たずしてたれり」は、水田から稲だけでなく魚やタニシも瓜も得られるので商人の販売が不要であったと解される)<ref>古賀登『両税法成立史の研究』雄山閣、2012年、P71</ref>。
などが考えられている<ref>福田一郎
== 歴史 ==
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稲作の起源は2017年現在、考古学的な調査と野生稲の約350系統のDNA解析の結果、約1万年前の[[中国]][[長江]]流域の[[湖南省]]周辺地域と考えられている<ref name="nig1110">A map of rice genome variation reveals the origin of cultivated rice.
Xuehui Huang, Nori Kurata, Xinghua Wei, Zi-Xuan Wang, Ahong Wang, Qiang Zhao, Yan Zhao, Kunyan Liu, Hengyun Lu, Wenjun Li, Yunli Guo, Yiqi Lu, Congcong Zhou, Danlin Fan, Qijun Weng, Chuanrang Zhu, Tao Huang, Lei Zhang, Yongchun Wang, Lei Feng, Hiroyasu Furuumi, Takahiko Kubo, Toshie Miyabayashi, Xiaoping Yuan, Qun Xu, Guojun Dong, Qilin Zhan, Canyang Li, Asao Fujiyama, Atsushi Toyoda, Tingting Lu, Qi Feng, Qian Qian, Jiayang Li, Bin Han
Nature, 490, 497-501 (2012)</ref>。(かつては[[雲南省]]の[[遺跡]]から発掘された4400年前の試料や遺伝情報の多様性といった状況から雲南省周辺から[[インド]][[アッサム州]]周辺にかけての地域が発祥地とされていた<ref name="nig1110"/><ref>池橋宏
長江流域にある[[草鞋山遺跡]]の[[プラント・オパール]]分析によれば、約6000年前にその地では[[ジャポニカ米]]が栽培されており、インディカ米の出現はずっと下るという<ref>王才林、宇田津徹朗、湯陵華、鄒江石 ほか、[https://doi.org/10.1270/jsbbs1951.48.387 プラント・オパールの形状からみた中国・草鞋山遺跡(6000年前 - 現代)に栽培されたイネの品種群およびその歴史的変遷] 育種学雑誌
=== 中国での伝播 ===
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=== 日本への伝来 ===
日本では陸稲栽培の可能性を示すものとして岡山の朝寝鼻貝塚から約6000年前の[[プラント・オパール]]が見つかっており、また南溝手遺跡からは約3500年前の籾の痕がついた土器がみつかっている。水田稲作に関しては約2600年前の[[菜畑遺跡]]の水田跡がある。水田稲作の伝来経路としては『朝鮮半島経由説』『江南説(直接ルート)』『南方経由説』の3説があり<ref name="jbrewsocjapan1988.87.732">佐藤洋一郎
=== 朝鮮半島への伝来 ===
朝鮮半島では遼東半島で約3000年前の炭化米が見つかっているが、稲作の痕跡は見つかっていない。水田稲作に関しては約2500年前の水田跡が松菊里遺跡などで見つかっている。研究者の甲元は<
=== 東南アジア、南アジアへの伝来 ===
[[東南アジア]]、[[南アジア]]へは紀元前2500年以降に広まった<ref>Fabio Silva , Chris J. Stevens, Alison Weisskopf, Cristina Castillo, Ling Qin, Andrew Bevan, Dorian Q. Fuller
=== 西アジアへの伝来 ===
[[トルコ]]へは中央アジアから乾燥に比較的強い陸稲が伝えられたと考える説や、[[インド]]から[[ペルシャ]]を経由し水稲が伝えられたと考える説などがあるが、十分に研究されておらず未解明である<ref>大野盛雄、[https://doi.org/10.5356/jorient.35.97 現代から見た「米の道」
=== アフリカへの伝来 ===
栽培史の解明は不十分とされているが、現在の[[アフリカ]]で栽培されているイネは、地域固有の栽培稲(アフリカイネ ''Oryza glaberrima'' )とアジアから導入された栽培稲(アジアイネ ''Oryza sativa'' )である<ref name="nettai.6.18">田中耕司、[
アジアイネの伝来以前のアフリカでは、野生化していたアフリカイネの祖先種と考えられる一年生種 ''O. barthii'' と多年生種 ''O. longistaminata'' などが利用されていた。近代稲作が普及する以前は、アフリカイネの浮稲型や陸稲型、アジアイネの水稲型、陸稲型が栽培地に合わせ選択栽培されていた。[[植民地]]支配されていた時代は品種改良も行われず稲作技術に大きな発展は無く、旧来の栽培方式で行われた。また、利水潅漑施設が整備される以前は陸稲型が70%程度であった。植民地支配が終わり、利水潅漑施設が整備されると低収量で脱粒しやすいアフリカイネは敬遠されアジアイネに急速に置き換わった<ref name="nettai.6.18" />。1970年代以降になると、組織的なアジアイネの栽培技術改良と普及が進み生産量は増大した。更に、1990年代以降はアフリカイネの遺伝的多様性も注目される様になり、鉄過剰障害耐性、耐病性の高さを高収量性のアジアイネに取り込んだ新品種[[ネリカ]]米が開発された<ref name="Jones">Jones MP ''et al.'' (2004). "[http://www.springerlink.com/content/x5r32103p28j7300/?p=2ffa5773c8894852986f85d5502280b6&pi=0 Interspecific Oryza Sativa L. x O. Glaberrima Steud. progenies in upland rice]". ''Euphytica'', '''94''': 237-246.</ref><ref name="NERICA_1">WARDA (2008) - [http://www.warda.org/publications/nerica-comp/Nerica%20Compedium.pdf NERICA:the New Rice for Africa – a Compendium. (PDF)] P.12-13</ref>。ネリカ米の特性試験を行った藤巻ら(2008)は<ref name=jshwr.21.0.145.0>藤巻晴行、林詩音、佐藤政良、[https://doi.org/10.11520/jshwr.21.0.145.0 ネリカ米の耐乾性および耐塩性の評価] 水文・水資源学会研究発表会要旨集 第21回(2008年度)水文・水資源学会総会・研究発表会 セッションID:G-1, {{doi|10.11520/jshwr.21.0.145.0}}</ref>、陸稲品種の「トヨハタモチ」と比較しネリカ米の耐乾性は同等であるが耐塩性は劣っていると報告している<ref name=jshwr.21.0.145.0 />。
=== ヨーロッパへの伝来 ===
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=== 縄文稲作の可能性 ===
日本列島における稲作は弥生時代に始まるというのが近代以降20世紀末まで歴史学の定説だったが、学説としては縄文時代から稲を含む農耕があったとする説が何度か出されてきた。宮城県の[[枡形囲貝塚]]の土器の底に籾の圧痕が付いていたことを拠り所にした、[[1925年]]の[[山内清男]]の論文「石器時代にも稲あり」がその早い例だが<ref>山内清男
縄文稲作の証拠として有力な考古学的証拠は、[[縄文時代]]後期(約3500年前)に属する岡山県[[南溝手遺跡]]や同県[[津島岡大遺跡]]の[[土器]]胎土内から出た[[プラント・オパール]]である。砕いた土器の中から出たプラント・オパールは、他の[[土層 (考古学)|土層]]から入り込んだものではなく、原料の土に制作時から混じっていたと考えられる<ref>藤原宏志『稲作の起源を探る』126-129頁。佐藤洋一郎『稲の日本史』26-27頁。</ref>。
しかし、これらについても疑問視する研究者もいる。米粒は、外から持ち込まれた可能性がある<ref>佐藤洋一郎『稲の日本史』17-18頁。</ref>。土壌中のプラントオパールには、攪乱による混入の可能性がある<ref name="SEI0002_037-040">甲元眞之:稲作の伝来 青驪 2巻, 2005-7-15 p.37-40 {{hdl|2298/22905}}</ref>。この様な指摘を受け、2013年にはプラントオパール自体の年代を測定する方法が開発されている<ref>中村俊夫、宇田津徹朗、田崎博之、外山秀一 ほか、[http://doi.org/10.18999/sumrua.24.123 プラント・オパール中の炭素抽出とその{{sub|14}}C 年代測定の試み] 名古屋大学加速器質量分析計業績報告書. v.24, 2013, p.123-132, {{hdl|2237/20152}}, {{naid|120005438138}}, {{doi|10.18999/sumrua.24.123}}</ref><ref>宇田津徹朗(2013)、[http://doi.org/10.18999/sumrua.24.113 東アジアにおける水田稲作技術の成立と発達に関する研究 : その現状と課題(日本と中国のフィールド調査から)名古屋大学加速器質量分析計業績報告書]. v.24, 2013, p.113-122, {{hdl|2237/20151}}, {{doi|10.18999/sumrua.24.113}}</ref>。否定的な説をとる場合、確実に稲作がはじまったと言えるのは稲作にともなう農具や水田址が見つかる縄文時代晩期後半以降である<ref>那須浩郎、{{PDFlink|[https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/187004.pdf 「雑草からみた縄文時代晩期から弥生時代移行期におけるイネと雑穀の栽培形態」](『国立歴史民俗博物館研究報告』第187集、2014年7月)、98頁。}}</ref>。これは弥生時代の稲作と連続したもので、本項目でいう縄文稲作には、縄文晩期後半は含めない<ref>佐藤洋一郎『稲の日本史』18頁。</ref>。
プラントオパールを縄文稲作の証拠と認める場合、稲作らしい農具や水田を伴わない栽培方法を考えなければならない。具体的には畑で栽培する陸稲である<ref>外山秀一、
水稲(温帯ジャポニカ)耕作が行われる弥生時代より以前の稲作は、陸稲として長い間栽培されてきたことは[[宮崎県]][[上ノ原遺跡]]出土の資料からも類推されていた。栽培[[穀物]]は、[[イネ]]、[[オオムギ]]、[[アズキ]]、[[アワ]]であり、これらの栽培穀物は、後期・末期(炭素年代測定で4000 - 2300年前)に属する。
=== 日本への伝来ルート ===
==== 朝鮮半島経由説 ====
* [[佐原真]]は[[弥生]]稲作が日本に伝わった道について、「南方説、直接説、間接説、北方説があった」が「しかし現在では・・・朝鮮半島南部から北部九州に到来したという解釈は、日本の全ての弥生研究者・韓国考古学研究者に共有のものである」としており、[[佐藤洋一郎]]らが最近唱えた解釈に対しては、安思敏らの石包丁直接渡来説を含めて「少数意見である」としている<ref>佐原真『古代を考える稲・金属・戦争』p5-p6</ref>。
* [[趙法鐘]]は、[[弥生]]早期の稲作は[[松菊里]]文化に由来し「水稲農耕、[[灌漑]]農耕技術、農耕道具、米の粒形、作物組成および文化要素全般において」韓半島南部から伝来したとしており、「日本の稲作は韓半島から伝来したという見解は韓日両国に共通した見解である」と書いている<ref>趙法鐘ྂ『古代韓日関係の成立
* [[池橋宏]]は、長江流域に起源がある水稲稲作は、紀元前5,6世紀には呉・越を支え、北上し、朝鮮半島から日本へと達したとしており<ref name="池橋62">池橋 宏『稲作渡来民 「日本人」成立の謎に迫る 』p62、講談社選書</ref>、20世紀中ごろから南島経由説、長江下流域から九州方面への直接渡来説、朝鮮半島経由説の3ルートの説が存在していたが、21世紀になり、考古学上の膨大な成果が積み重ねと朝鮮半島の考古学的進歩により、「日本への稲作渡来民が朝鮮半島南部から来たことはほとんど議論の余地がないほど明らかになっている」とまとめている<ref name="池橋62"/>。
* しかしこれについて[[広瀬和雄]]は、「中国大陸から戦乱に巻き込まれた人達が渡来した」というような説は水田稲作が紀元前8世紀には渡来したのであれば「もう成立しない」としている<ref>広瀬和雄『弥生時代はどう変わるか
* [[藤尾慎一郎]]は、これまでの前4,5世紀頃伝来説が、新年代説(前10世紀頃)になったとしても、朝鮮半島から水田稲作が来たことには変わりないとしている<ref>藤尾慎一郎『<新>弥生時代 500年早かった水田稲作』p34</ref>。
* 山崎純男は、朝鮮半島から最初に水田稲作を伴って渡来したのは支石墓を伴った全羅南道の小さな集団であり、遅れて支石墓を持たない慶尚道の人が組織的に来て「かなり大規模な工事を伴っている」としている<ref>広瀬和雄『弥生時代はどう変わるか
* [[佐藤洋一郎]]によると、風張遺跡(八戸)から発見された2,800年前の米粒は食料ではなく貢物として遠くから贈られてきた<ref>「稲の日本史」 佐藤洋一郎 P16
*[[分子人類学]]者の[[崎谷満]]も、[[ハプログループO1b2 (Y染色体)]]に属す人々が、長江下流域から朝鮮半島を経由して日本に[[水稲]]をもたらしたとしていた<ref>『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史』(勉誠出版 2009年)</ref>。
==== 江南説
農学者の[[安藤広太郎]]によって提唱された中国の[[長江]]下流域から直接に稲作が日本に伝播されたとする説<ref>蔡
2002年に農学者の[[佐藤洋一郎 (農学者)|佐藤洋一郎]]が著書「稲の日本史」で、中国・朝鮮・日本の水稲('''温帯ジャポニカ''')の[[マイクロサテライト|SSR(Simple Sequence Repeat)マーカー]]領域を用いた調査<ref>[[マイクロサテライト|SSR(Simple Sequence Repeat)マーカー]]領域に存在するRM1-aからhの8種類の[[DNA]]多型を調査し、中国にはRM1-a〜hの8種類があり、RM1-bが多く、RM1-aがそれに続く、朝鮮半島はRM1-bを除いた7種類が存在し、RM1-aがもっとも多い。
考古学の観点からは、[[八幡一郎]]が「稲作と弥生文化」(1982年)で「[[呉楚七国の乱]]の避難民が、江南から対馬海流に沿って北九州に渡来したことにより伝播した可能性を述べており<ref>賀川光夫、[http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=dk03104 『西日本の土偶出現期と土偶の祭式』] 別府大学紀要 (Memoirs of Beppu University). No.31
====
[[柳田國男]]の最後の著書「海上の道<ref>『海上の道』 著:柳田國男 岩波文庫 1978/10 ISBN 978-4003313862</ref>」で提唱した中国の[[長江]]下流域からの[[南西諸島]]を経由して稲作が日本に伝播されたとする説である。[[石田英一郎]]、[[可児弘明]]、[[安田喜憲]]、[[梅原猛]]などの民俗学者に支持され<ref>佐々木高明、[
[[北里大学]]の太田博樹准教授(人類集団遺伝学・分子進化学)は、下戸の遺伝子と称されるALDH2(2型アルデヒド脱水素酵素)遺伝子多型の分析から、稲作の技術を持った人々が中国南部から沖縄を経由して日本に到達した可能性を指摘している。<ref>[http://mainichi.jp/articles/20161221/dde/018/040/023000c 「歴史の鍵穴 酒に弱い人の遺伝子 中国南部から伝来か=専門編集委員・佐々木泰造」] 毎日新聞 2016年12月21日</ref>
考古学の観点からは、沖縄で古代の稲作を示す遺構が出土していないため関心が低いが、生化学の観点からは、[[渡部忠世]]や佐藤洋一郎が陸稲('''熱帯ジャポニカ''')の伝播ルートとして柳田の仮説を支持している
=== 古代の稲作 ===
青森県の[[砂沢遺跡]]から水田遺構が発見されたことにより、弥生時代の前期には稲作は本州全土に伝播したと考えられている<ref
[[大和朝廷]]は日本を「[[葦原中国|豊葦原の瑞穂の国]](神意によって稲が豊かに実り、栄える国)」と称し、国家運営の基礎に稲作を置いた。朝廷は水田を[[条里制]]によって区画化し、国民に一定面積の水田を[[口分田]]として割りあて、収穫を納税させる[[班田収授制]]を652年に実施した。
=== 中世の稲作 ===
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=== 近代の稲作 ===
明治時代に入ると、柔らかい湿地を人間が耕す方法から硬い土壌の水田を牛や馬を使って耕す方法が行わるようになった。肥料も排泄物
江戸時代から北海道[[道南]]の[[渡島半島]]南部では稲作が行われていたが、明治に入ると[[道央]]の[[石狩平野]]でも栽培されるようになった。[[中山久蔵]]などの農業指導者が寒冷地で稲作を可能とするために多くの技術開発を行い、かつて不毛の[[泥炭地]]が広がっていた石狩平野や[[上川盆地]]は広大な水田地帯に変じ(道央水田地帯)、新潟県と一二を争う米どころへ変化していく。
こうして昭和初年には、米の生産高は明治11〜15年比で2倍以上に増加したが<ref>
戦後、国内生産が軌道に乗ってからは、政府が米を主食として保護政策を行ってきた。不作を除いて輸入を禁止し、流通販売を規制した。自主流通米は量を制限し、政府買い上げについては、買い上げ価格より安く赤字で売り渡す逆ザヤにより農家の収入を維持しつつ、価格上昇を抑制する施策をとってきた。農閑期に行われていた出稼ぎは、稲作に機械化が進み人手が余り要らなくなったため、「母ちゃん、爺ちゃん、婆ちゃん」のいわゆる「三ちゃん農業」が多くなり、通年出稼ぎに行く一家の主が増え、専業農家より兼業農家の方が多くなった。[[1960年代]]以降、食生活の多様化により一人当たりの米の消費量の減少が進み、[[1970年]]を境に米の生産量が消費量を大きく越え、米余りの時代に突入。政府によって[[減反政策]]などの生産調整が行われるようになった。
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==== 冬季代かきによる方法例 ====
<ref>濱田千裕、中嶋泰則 ほか、[
# 12月 - 翌年3月に代掻きをし、水が澄むのをまって水を落とす。
# 圃場が固くなってから、溝に直接[[肥料]]と種籾を播く。
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# 必要に応じ、中干しを行う。
==== 米ヌカを播く方法例 ====
<ref>[http://www.ruralnet.or.jp/gn/200211/ine.htm 不耕起有機栽培で10俵どり!?
# 1月に米[[ヌカ]]をまいて、水を溜める(湛水)。
# 3 - 4月に一旦水を抜き、耕す(但し、状態によっては不要)。
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== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2009年9月|section=1}}
* 池橋宏、「[https://doi.org/10.11248/jsta1957.47.322 イネはどこから来たか
* 池橋宏、『稲作の起源 イネ学から考古学への挑戦』(講談社選書メチエ)、講談社、2005年、ISBN 4-06-258350-X
* {{Cite journal|和書|author=尹紹亭 |title=亜洲稲作起源研究的回顧 : アジア稲作起源研究についての回顧 |date=2004-03-25 |journal=龍谷大学国際社会文化研究所紀要 |volume=6 |naid=110004520088 |pages=86-92 |ref=harv}}
* 上垣外憲一『倭人と韓人』(講談社学術文庫)、講談社、2003年、ISBN 4-06-159623-3
* 王才林・宇田津徹朗・湯陵華・鄒江石・鄭雲飛・佐々木章・柳沢一男
* 岡田英弘『倭国』(中公新書)、中央公論新社、1977年、ISBN 4-12-100482-5
* {{Cite journal|和書|author=奥西元一 |title=戦前まで房総半島北部でおこなわれた湿田農法に関する立地生態的分析(栽培) |date=2008-07-05 |journal=日本作物學會紀事 |volume=77 |number=3 |naid=110006792300 |pages=288-298 |ref=harv}}
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* {{Cite |和書|author=[[佐藤洋一郎 (農学者)|佐藤洋一郎]]| |title=稲の日本史 |date=2002 |publisher=角川書店 |isbn=4047033375 |series=角川選書, 337 |ref=harv}}
* 佐藤洋一郎『DNA考古学のすすめ』(丸善ライブラリー)、丸善出版、2002年、ISBN 4-621-05355-8
* 佐藤洋一郎監修『ユーラシア農耕史』臨川書店、全五巻、2008年 -
* 祖父江 孝男『文化人類学入門』増補改訂版」 中央公新社 ISBN 4-12-190560-1
* 武光誠『「古代日本」誕生の謎 大和朝廷から統一国家へ』、PHP研究所、2006年、ISBN 4-569-66579-9
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* 藤原宏志『稲作の起源を探る』(岩波新書)、岩波書店、1998年、ISBN 4-00-430554-3
* 朴天秀『加耶と倭 韓半島と日本列島の考古学』(講談社選書メチエ)、講談社、2007年、ISBN 978-4-06-258398-5
*[[山内清男]]「石器時代にも稲あり」、『人類学雑誌』第40巻5号、1925年。
* C・スコット・リトルトンおよびリンダ・A・マルカー 著、辺見葉子および吉田瑞穂 訳『アーサー王伝説の起源 スキタイからキャメロットへ』、青土社、1998年、ISBN 4-7917-5666-5
* 『「米」で総合学習みんなで調べて育てて食べよう』シリーズ(全4巻) 金の星社 2002年
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== 外部リンク ==
* 中島健一:[
* 岡彦一:[
* 川島鉄三郎:[
* 高見晋一:[
* 立岩寿一:[
{{DEFAULTSORT:いなさく}}
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