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== 歴史 ==
=== 建国期 ===
[[河西回廊|河西]]・[[隴西郡|隴西]]地方に居住していた西部[[鮮卑]]の乞伏部は[[三国時代 (中国)|三国時代]]に高平川流域(現在の[[寧夏回族自治区]]中部)に居住していた<ref name="民族大移動117">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P117</ref>。その後、苑川(現在の[[甘粛省]][[楡中県]])・麦田(現在の甘粛省[[白銀市]][[平川区]])を経て<ref name="民族大移動117"/>、4世紀中頃には[[乞伏司繁]]に率いられて度堅山(現在の甘粛省[[靖遠県]])に移り、遊牧をして生活を営んでいた<ref name="民族大移動118">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P118</ref>。しかし[[前秦]]の[[苻堅]]・[[王猛]]らによる華北統一の波が乞伏部にも及び、[[371年]]には前秦の[[益州]][[刺史]][[王統]]の攻撃を受けて乞伏部は降伏し、乞伏司繁は[[長安]]に送られて苻堅より南単于に任命された<ref name="民族大移動118"/>。[[373年]]に鮮卑の[[勃寒]]が隴右を犯したため、苻堅は乞伏司繁に命じてこれを討伐させ、そのまま勇士川(苑川)を領することになった<ref name="民族大移動118"/>。[[376年]]に乞伏司繁は死去し、子の[[乞伏国仁]]が跡を継いだ<ref name="民族大移動118"/>。[[383年]]の[[ヒ水の戦い|淝水の戦い]]では乞伏国仁は前将軍として従軍を命じられていたが、その直前に乞伏国仁の叔父が隴西で反乱を起こしたため、苻堅は乞伏国仁に討伐させるため引き返させた<ref name="民族大移動118"/>。この戦いで前秦軍が東晋軍の前に大敗し、叔父から自立を説得されていた乞伏国仁は隴西にそのまま留まって諸部を召集し、10万余の兵力を有するようになった<ref name="民族大移動118"/>。
 
[[385年]][[8月]]、苻堅が[[後秦]]の[[姚萇]]により殺害されると、9月に乞伏国仁は大単于を自称し、[[建義]]と改元して苑川の勇士城に遷都して独立した<ref name="民族大移動118"/>。これが西秦の起源である<ref name="民族大移動118"/>。ただし西秦は前秦に叛旗を翻したわけではなく、あくまでその服属下に従属していた<ref name="民族大移動118"/>。
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[[421年]][[3月]]、北涼が西涼を滅ぼすと西秦と衝突するようになり、さらに夏も関中に進出して西秦と敵対し、これに乗じて吐谷渾まで攻めてきたため、包囲網を敷かれた西秦は守勢に回った<ref name="民族大移動120"/>。乞伏熾磐は[[北魏]]と連携する事で打開を図り、北魏に夏を攻撃させて一応の成果を挙げた<ref name="民族大移動121">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P121</ref>。だが西秦国内で吐谷渾や[[羌]]の反乱が相次ぎ、結局衰退は免れ得なかった<ref name="民族大移動121"/>。
 
[[428年]][[5月]]に乞伏熾磐は死去し、息子の[[乞伏暮末]]が即位する<ref name="民族大移動121"/>。だが北涼の圧力を受けた乞伏暮末は[[429年]][[5月]]に定連(現在の甘粛省臨夏県)に遷都し、[[430年]][[10月]]に夏から攻撃されたため北魏の支援を求めて[[平涼]](現在の甘粛省[[華亭平涼市]])や[[崆峒区]])や安定郡|安定(現在の甘粛省[[涇川県]]に遷都しようとするも、夏に阻まれて南安(現在の甘粛省[[隴西県]])に遷都するのがやっとだった<ref name="民族大移動122">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P122</ref>。
 
だが皮肉にも、支援を求めた北魏により西走してきた夏の[[赫連定]]により[[431年]][[1月]]に南安を攻められ、乞伏熾磐は夏に降伏した<ref name="民族大移動122"/>。こうして国家としての西秦は滅亡した<ref name="民族大移動122"/>。乞伏暮末は助命されたが、6月に一族もろとも夏により殺戮されて<ref name="民族大移動122"/>、西秦は完全に滅亡した。