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'''ジェームズ・ブキャナン・ジュニア'''({{lang|en|James Buchanan, Jr.}}, [[1791年]][[4月23日]] - [[1868年]][[6月1日]])は、[[アメリカ合衆国]]の第15代[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]である。18世紀生まれの最後の大統領であり、結婚しなかった唯一の大統領である。また、[[ペンシルベニア州]]から選出された唯一の大統領でもある。身長6[[フィート]](約183cm)<ref>[https://www.businessinsider.com/us-president-first-lady-height-differences-2018-7 The height differences between all the US presidents and first ladies] [[ビジネス・インサイダー]]</ref>。
 
ブキャナンは人気があり経験豊富な州の政治家で、非常に成功した弁護士であった<ref>Thomas Bailey, Lizabeth Chen and David Kennedy. The American Pageant. 13th Edition. Houghton Mifflin Company. New York: 2006, p. 415</ref>。彼はペンシルベニア州選出の下院議員となり、後には上院議員に転身、[[アンドリュー・ジャクソン]]内閣ではロシア担当大臣を務めた。また、[[ジェームズ・ポーク|ポーク]]内閣では[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]も務めている。2017年時点では国務長官を経験した最後の大統領である<ref>『アメリカ大統領を読む事典』[[宇佐美滋]]著、[[講談社]]+α文庫、p290、p421</ref>。最高裁長官の指名を断った後、[[フランクリン・ピアース|ピアース]]内閣ではイギリス担当大臣を務め、[[オステンド・マニフェスト]]の作成を手助けした。
 
[[1844年アメリカ合衆国大統領選挙|1844年]]、[[1848年アメリカ合衆国大統領選挙|1848年]]、[[1852年アメリカ合衆国大統領選挙|1852年の大統領選]]において民主党の候補指名に失敗したが、「オールド・バック ''Old Buck''」は1856年の大統領選で民主党の大統領候補に指名された。ピアース大統領の任期の大半、ブキャナンはイギリス担当大臣としてロンドンに滞在していたため、合衆国を支配した派閥政治の十字砲火の中に交わることはなかった。ブキャナンは奴隷制度問題において両派の間で妥協した態度を取ったと見なされた。選挙は[[ジョン・フレモント]]、[[ミラード・フィルモア]]との三つどもえの戦いとなった。大統領として彼はしばしば「''doughface''」(奴隷制度に賛成した北部自由州の議員)と呼ばれ、民主党の主導権を[[スティーブン・ダグラス]]と争った。ブキャナンは北部と南部の間の平和を維持するため努力したものの、両陣営は疎遠となり、南部諸州の合衆国からの脱退により[[南北戦争]]へと突入する。記録に寄ればブキャナンは南部諸州の脱退は不法なものであったが、それを止めるために戦争を行うのも不法であったと考えていたとされる。ブキャナンは第一に弁護士として「私は法以外の支配を全く承認しない。」という決まり文句で有名であった<ref>[[#Klein|Klein (1962)]], p. 305</ref>。