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===ナベプロ帝国の陰り~晩年===
しかし、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列で始まった[[オーディション]]番組『[[スター誕生!]]』による[[ホリプロ]]や、数年間提携していた[[ジャニーズ事務所]]、さらに[[吉本興業]]、[[バーニングプロダクション]]などの台頭、[[伊東ゆかり]]、[[森進一]]、[[木の実ナナ]]、[[布施明]]など人気タレントの相次ぐ独立もあり、[[1970年代]]後半から徐々にナベプロ帝国の影響力にかげりが見え始めた。また自身の体調悪化(後述)に加え、ワンマン体制が長期化した事や、時の変貌に対する時流に自身がついていけなくなるようになり、[[大里洋吉]](後に[[アミューズ]]を創業)や松下等が運営方針の食い違いで対立し社を去るなど、社内においても人事面等での対立等もあり次第に孤立していった。
 
[[1970年]]に左の頬に[[皮膚癌]]を発症。一度は根治したかに見えたが、[[1974年]]に再発。その後は死去するまで癌との闘病を強いられることとなった。[[コバルト]]治療の副作用で左目の視力を失い、晋自身が「ものを考えられない」とこぼすほどの激しい頭痛にも悩まされた。最晩年はやせ衰え、本来経営者として盛りである五十代であるのにも関わらず、老人のように痛々しく衰弱していた。それでも、病身を押して死の間際までゴルフやパーティーに出席するなどプロダクション経営の一線に立ち続けた。
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==参考文献==
* [[軍司貞則]] 『ナベプロ帝国の興亡』 [[文藝春秋]]、1992年3月、ISBN 4-16-346010-1
* [[野地秩嘉]] 『「芸能ビジネス」を創った男 ナベプロとその時代』 [[新潮社]]、2006年3月、ISBN 4-10-414102-X
* [[松下治夫]] 『芸能プロ渡辺プロダクションの真実。』