「ジョン・アンダーソン (外野手)」の版間の差分

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* [[ロサンゼルス・ドジャー|ブルックリン・グルームス<br />ブライドグルームス<br />スパーバス]] (1894 - 1898,1899)
* [[ワシントン・セネタース (1891-1899年)|ワシントン・セネタース(NL)]] (1898)
* [[ボルチモア・オリオールズ|ミルウォーキー・ブルワーズ<br />セントルイス・ブラウンズ]] (1901 - 1903)
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== 経歴 ==
1894年、ニューイングランドのヘイバービルという球団の選手だったアンダーソンは、8月に400ドルの金銭で当時のブルックリン・グルームス(現[[ロサンゼルス・ドジャース]])に入団する。すぐに外野のレギュラーとなり、毎年3割、30盗塁前後の成績を挙げられる選手だった。[[1898年]]、オーナーの意向で当時の強豪球団だったボルチモア・オリオールズから多くの選手がブルックリンに移って来る中、アンダーソンは5月に『条件つき移籍』でワシントン・セネタース(当時)に4ヶ月だけ所属し、再びブルックリンに復帰したという経歴を持っている。所属チームが代わる中で、アンダーソンはこの年リーグ最多の22本の三塁打を放ち、また長打率でリーグ1位という活躍をしている。
 
[[1901年]]にアメリカンリーグが発足するとミルウォーキー・ブルワーズ(現[[ボルチモア・オリオールズ]])に移籍する。年齢とともに長打の数は減っていたが、1901年に記録した35盗塁はリーグ7位の成績だった。その後[[ニューヨーク・ヤンキース|ニューヨーク・ハイランダース]]、ワシントン・セネタース(現[[ミネソタ・ツインズ]])と渡り歩き、1906年にセネタースで自身最多となる39盗塁を記録、この数は[[エルマー・フリック]]と並びリーグ最多であった。
 
1908年の[[シカゴ・ホワイトソックス]]在籍を最後にメジャーから退き、1949年にマサチューセッツ州で亡くなった。
 
== 人物 ==
チームを乗せる元気なプレーヤドオフマンだったが、それが過ぎて珍プレーを犯したことある。それは満塁の場面で盗塁してしまったのだ。それもすることで、1904年、1905年と2連続である。1905年のほう方では、1点差で迎えた9回2アウトという場面だった。1塁ランナーだったアンダーソンは突然走り出し、タッチアウトでゲームセットになってしまったのである。以後、満塁で自分だけが盗塁してしまうプレーを「ジョン・アンダーソン」と呼ばれることとなる。
 
== 詳細情報 ==