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[[Image:Louis XIV of France.jpg|thumb|240px|フランス国王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]]]
 
== 東洋の国王 ==
<!--「王」という言葉は古代[[中国語]]に発する。-->元来、漢字の「[[王]]」は、[[殷]]・[[周]]王朝の君主の称号として使われた。周王は天下(世界)を治め、諸侯は周の[[封建制]]の下で国(領地)を治め「公」を称した。[[春秋時代]]に[[東周|周]]が衰微し、有力諸侯の群雄割拠の時代になっても<!--周王を尊重して-->周王のみが王を名乗った<ref>[[楚 (春秋)|楚]]が<!--周を指し置いて-->「王」を名乗ることがあったが、文明外の蛮族を称するようなものと見なされた。</ref>。
 
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近代では[[立憲君主制]]を採用する国が多く、そのような国では国王の役割は儀礼的なものとなってきているが、外交や公式・非公式な場での発言などによる政治的な影響力は大きい。
 
== 現在の国王一覧 ==
{{also|現在の君主の一覧}}
* 在位年順
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!齢
!在位年
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|[[2016年]][[10月13日]]
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|{{仮リンク|ムハマド5世|en|Muhammad V of Kelantan}}
|{{MYS}}<ref name=":0" group="注" />
|{{年数|1969|10|6}}歳
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!齢
!在位年
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!齢
!在位年
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!齢
!在位年
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!在位年
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:
;[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]
:[[イングランド王国|イングランド]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]、[[アイルランド王国|アイルランド]]の王(在位:[[1625年|1625]]&nbsp;-&nbsp;[[1649年]])
:[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ6世]]の次男。[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]・[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]の父。
:父同様に[[王権神授説]]を信奉し、「[[権利の請願]]」に一旦は請願受託の署名を行うが、翌年議会を解散、議会の指導者を投獄し、専制政治を行った。[[国教]]統一に乗り出し、[[ピューリタン]]を[[弾圧]]した。スコットランドにも国教を強制するにおよんで、各地に反乱が起きた。特に[[カルヴァン主義|カルヴァン派]]の民衆が反乱に立ち上がった。反乱鎮圧のための戦費を得る目的で11年ぶりに議会を招集し、船舶税で賄おうとした([[短期議会]]・[[長期議会]])。反国王派の議員を[[逮捕]]に踏み切ったことで議会派と王党派の内戦が勃発した([[イングランド内戦]])。[[オリバー・クロムウェル|オリヴァー・クロムウェル]]率いる[[鉄騎隊]]の活躍により、王党派が各地で打ち破られ[[清教徒革命|ピューリタン革命]]が起こった。チャールズ1世は処刑され[[イングランド共和国]]([[共和制]])が樹立された。
264行目:
:[[フランス]]の[[軍人]]・[[政治家]]。[[フランス第一帝政|フランス帝国]]の[[フランス皇帝|皇帝]] 在位:[[1804年]]&nbsp;-&nbsp;[[1814年]]、[[1815年]]
:[[コルシカ島]]の[[パトリキ|血統貴族]]出身。[[ナポレオン2世]]の父。
:フランス革命中にジャコバン派を支持。フランス地中海艦隊の母港[[トゥーロン]]を奪回して功績を上げる。[[1795年]]、[[王党派]]の蜂起[[ヴァンデミエールの反乱]]を鎮圧。[[1796年]]、イタリア方面軍司令官に抜擢されオーストリアに連戦連勝。[[1798年]]、[[エジプト]]に上陸し、[[ピラミッドの戦い]]で勝利。しかし12月[[第二次対仏大同盟]]が結成されフランスが危機に陥ると、[[1799年]]、[[ブリュメールのクーデター]]を起こし、[[統領政府]]を樹立し自ら第一統領(第一執政)となり、実質的に独裁権を握った。1800年には[[フランス銀行]]を設立。[[1804年]]には初の本格的な民法「フランス民法典([[ナポレオン法典]])」を公布。[[1801年]]に[[教皇]][[ピウス7世 (ローマ教皇)|ピウス7世]]との間で[[政教条約]]を結び、国内の宗教対立を緩和。[[1802年]]に自らを終身統領(終身執政)と規定。
:1804年5月国会の議決と[[国民投票]]を経て皇帝の地位に就いた。1805年10月、[[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ネルソン]]率いるイギリス海軍の前に[[トラファルガーの海戦]]にて完敗。対英上陸作戦を断念し大陸制覇に方針を変える。[[アウステルリッツの戦い]]で[[オーストリア帝国]]と[[ロシア帝国]]に完勝。10月の[[イエナの戦い]]・[[アウエルシュタットの戦い]]でプロイセン軍に大勝して[[ベルリン]]を占領。ヨーロッパ中央をほぼ制圧する。1806年[[大陸封鎖令]]を出しイギリスとの貿易を禁止させる。[[ティルジット条約]]においてプロイセンは49%の領土を削り、さらに多額の賠償金をフランスに支払わせた。[[フランス]]は[[イギリス]]・[[スウェーデン]]を除くヨーロッパ全土を制圧し、[[イタリア]]・[[ドイツ]]西南部諸国・[[ポーランド]]はフランス帝国の属国に、[[ドイツ]]系の残る二大国、[[オーストリア]]・プロイセンも従属的な同盟国となった([[ナポレオン戦争]])。
:しかしその後[[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]に失敗、[[ライプツィヒの戦い]]で大敗し[[1814年]]首都パリが陥落。将軍連の反乱により退位させられ、[[エルバ島]]に追放された([[解放戦争 (ドイツ)|解放戦争]])。
:[[1815年]]、戦後処理の[[ウィーン会議]]の混乱とフランス王に即位した[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]の政治が民衆の不満を買っているのをみて、ナポレオンはエルバ島を脱出し、パリに戻って復位する。しかし連合国に講和を提案したが拒否され、イギリス・プロイセンの連合軍に[[ワーテルローの戦い]]で完敗して再び退位に追い込まれる([[百日天下]])。南[[大西洋]]の孤島[[セントヘレナ|セントヘレナ島]]に幽閉され死去した。
;[[ナポレオン3世|ナポレオン3世 (ルイ・ナポレオン)]]
:[[フランス第二共和政]]の[[共和国大統領 (フランス)|大統領]]、のち[[フランス第二帝政]]の[[フランス皇帝|皇帝]](在位:[[1852年]]&nbsp;-&nbsp;[[1870年]])
:[[ナポレオン・ボナパルト]]の甥(弟の[[ホラント王国|ホラント王]][[ルイ・ボナパルト|ルイ]]の子)。[[ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト|ナポレオン・ウジェーヌ]]の父。
320行目:
:[[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ3世]]の子。
:ビスマルクを引退させ、積極的な世界政策や軍備拡張を開始し、[[第一次世界大戦]]を戦うことになる。敗戦後、[[ドイツ革命]]により退位し亡命する。
 
== オーストリア ==
{{main|オーストリア君主一覧}}
344 ⟶ 345行目:
:[[ロシア・ツァーリ国|モスクワ・ロシア]]の[[ツァーリ]](在位:[[1682年]]&nbsp;- 1725年)、初代[[ロシア帝国|ロシア]][[ロシア皇帝|皇帝]]。
:モスクワ大公[[アレクセイ (モスクワ大公)|アレクセイ]]の子。ロシア女帝[[エリザヴェータ (ロシア皇帝)|エリザヴェータ]]の父。
:ロシアの工業化を推し進め、[[スウェーデン]]から[[バルト海]]海域世界の覇権を奪取。新たな首都[[サンクトペテルブルク]]を建設した。 
;[[ピョートル3世]]
:[[ロマノフ朝]]第7代[[ロシア帝国|ロシア]][[ロシア皇帝|皇帝]](在位:[[1762年]][[1月5日]]&nbsp;-&nbsp;[[1762年]][[7月9日]])[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国|シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ]][[シュレースヴィヒとホルシュタインの統治者一覧|公]]
357 ⟶ 358行目:
:[[パーヴェル1世]]の子。父は[[アレクサンドル2世]]。
:[[デカブリストの乱]]を鎮圧し専制政治を行う。[[ギリシャ王国|ギリシャ]]や[[セルビア王国 (近代)|セルビア]]の独立運動を支援。[[ポーランド立憲王国]]の自治権拡大運動を抑制。オスマン帝国との間に[[クリミア戦争]]を起こすも戦争中に死去。
 
 
;[[アレクサンドル2世]]
367行目:
:[[アレクサンドル3世]]の子。
:[[日露戦争]]中に[[ロシア第一革命]]にあい国会を開設。[[第一次世界大戦]]に参戦するも[[2月革命 (1917年)|二月革命]]により退位させられその後処刑された。
 
== 中国 ==
{{main|中国帝王一覧}}
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;[[司馬炎]]
:[[西晋]]の初代[[皇帝]] 在位:266年2月4日 - 290年5月16日
:[[魏 (三国)|魏]]の武将・政治家[[司馬昭]]の子、2代皇帝[[恵帝 (西晋)|恵帝]][[司馬衷]])・3代皇帝[[懐帝 (西晋)|懐帝(司馬熾)]]の父。
:[[魏 (三国)|魏]]から[[禅譲]]を受けて[[晋 (王朝)|晋]]を建て、さらに[[呉 (三国)|呉]]を滅ぼして、分裂状態が続いていた中国をおよそ100年ぶりに統一した。
;[[文帝 (隋)|文帝(楊堅)]]
444 ⟶ 445行目:
:14代[[皇帝]]  在位:[[1572年]][[7月19日]]&nbsp;-&nbsp;[[1620年]][[8月18日]]
:13代皇帝[[隆慶帝]]の第3子。[[泰昌帝|朱常洛]]の父。
:[[内閣大学士|主席大学士]]([[中国の宰相|宰相]])[[張居正]]により、[[一条鞭法]]の導入・無用な公共事業の廃止などにより財政は好転。しかし張居正が死ぬと贅沢三昧の日々を送るようになる。[[万暦の三征]]([[文禄・慶長の役|朝鮮の役]]・[[ボハイの乱]]・[[楊応龍の乱]])の対応もあり、財政は再び悪化した。
;[[ヌルハチ|太祖(ヌルハチ)]]
:[[後金]]の創始者。[[清]]の初代[[皇帝]]。 在位:[[1616年]][[2月17日]]&nbsp;-&nbsp;[[1626年]][[9月30日]]
536 ⟶ 537行目:
*[[王位排除法案]]
 
== 参考文献 ==
*「マンガ 世界の歴史が分かる本」綿引弘 小杉あきら/ほしのちあき 2016年 三笠書房
*「世界史B用語集」全国歴史教育研究協議会編 2006年 山川出版社
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== 脚注 ==
<references group="注"/>
 
{{DEFAULTSORT:こくおう}}
[[Category:国王|*]]