「レナート・ドゥルベッコ」の版間の差分

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[[カラブリア州]][[カタンザーロ]]生まれ。[[トリノ大学]]でジュゼッベ・レーヴィに医学を学び、研究生活に入る。ここで[[サルヴァドール・ルリア]]と[[リータ・レーヴィ=モンタルチーニ]]に会い親交を結んだ。1940年[[第二次世界大戦]]が勃発すると軍医として召集されてフランス・ロシアの前線に派遣され、負傷した。[[ファシスト政権]]崩壊後は[[レジスタンス運動]]に参加した。
 
戦後研究を再開したが、まもなくレーヴィ=モンタルチーニとともにアメリカへ渡り、ルリアとともに[[インディアナ大学]](ブルーミントン)で[[バクテリオファージ]]の研究を始めた。1949に[[カリフォルニア工科大学]]に移って[[マックス・デルブリュック]]のグループに加わった。さらにここで動物[[ウイルス]]、特に腫瘍ウイルスの研究を始めた。1952年には[[培養細胞]]を用いた動物ウイルスのプラーク定量法を導入した。
 
1950年代後半には[[ハワード・テミン]]が学生となる。1962年には[[ソーク研究所]]に移り、ここでは[[デビッド・ボルティモア]]や[[利根川進]]を指導している。1972年には[[イギリス]]王立がん研究所に移る。