「正親町天皇」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== 即位 ===
[[永正]]14年([[1517年]])[[5月29日 (旧暦)|5月29日]]、[[後奈良天皇]]の第一皇子として生まれる。
弘治3年([[1557年]])、[[後奈良天皇]]の[[崩御]]に伴って[[践祚]]した。当時、[[天皇]]や[[公家]]達は貧窮しており、正親町天皇も[[戦国大名]]・[[毛利元就]]の献上金があるまで、3年間[[即位の礼]]を挙げられなかった{{Sfn|シロニー|loc=p.137(第4章「非力で女性的な天皇像」、9「ソフトで柔弱な君主たち」)}}{{Efn|元就は即位料・御服費用として総額2,059貫400文を進献し<ref>{{Cite journal |和書|author = 宮本義己 |authorlink = 宮本義己 |title = 戦国大名毛利氏の和平政策―芸・雲和平の成立をめぐって― |date = 1978 |journal = 日本歴史 |issue = 367号}}</ref>、正親町天皇は、元就に褒美として[[従五位|従五位下]]・[[馬寮|右馬頭]]という[[位階]]を授け、皇室の紋章である[[キク|菊]]と[[桐]]の模様を毛利家の[[家紋]]に付け足すことを許可した<ref>{{Harvnb|シロニー|loc=p.137}} さらに同書は以下を出典としている。<br />{{Cite journal |和書|author = 永井路子ほか |title = 武家政権はなぜ天皇を立て続けたのか |date = 1992 |journal = 月刊現代 |issue = 2月号 |page = 278}}</ref>。また後年、元就後裔の[[毛利元徳|元徳]]を藩主とする長州藩が帝国政府を樹立したのちの[[1908年]](明治41年)、この功績により元就に[[正一位]]が贈位された。}}。
 
[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])、[[後奈良天皇]]の[[崩御]]に伴って[[践祚]]した。当時、[[天皇]]や[[公家]]達は貧窮しており、正親町天皇も即位後約2年もの間[[即位の礼]]を挙げられなかったが、[[永禄]]2年([[1559年]])春に[[安芸国]]の[[戦国大名]]・[[毛利元就]]から即位料・御服費用の献上金があるまで納を受けたことにより永禄3年([[1560年]])[[1月27日 (旧暦)|1月27日]]に[[即位の礼]]を挙げられなかっることが出来た{{Sfn|シロニー|loc=p.137(第4章「非力で女性的な天皇像」、9「ソフトで柔弱な君主たち」)}}{{Efn|毛利元就は即位料・御服費用として総額2,059貫400文を進献し<ref>{{Cite journal |和書|author = 宮本義己 |authorlink = 宮本義己 |title = 戦国大名毛利氏の和平政策―芸・雲和平の成立をめぐって― |date = 1978 |journal = 日本歴史 |issue = 367号}}</ref>、正親町天皇は、元就に褒美として[[従位|従位下]]・[[馬寮|右馬頭陸奥守]]という[[]]を授け<ref>三卿伝編纂所編、[[渡辺世祐]]監修『毛利元就卿伝』([[マツノ書店]]、[[1984年]])394頁</ref>、皇室の紋章である[[キク|菊]]と[[桐]]の模様を毛利家の[[家紋]]に付け足すことを許可した<ref>{{Harvnb|シロニー|loc=p.137}} さらに同書は以下を出典としている。<br />{{Cite journal |和書|author = 永井路子ほか |title = 武家政権はなぜ天皇を立て続けたのか |date = 1992 |journal = 月刊現代 |issue = 2月号 |page = 278}}</ref>。また後年、元就後裔の[[毛利元徳|元徳]]を藩主とする[[長州藩]]が帝国政府を樹立したちの明治41年([[1908年]](明治41年)、この功績により元就に[[正一位]]が贈位された。}}。
 
さらに、[[本願寺]]法主・[[顕如]]も莫大な献金を行っており、天皇から[[門跡]]の称号を与えられた。これ以後、本願寺の権勢が増した。[[永禄]]8年([[1565年]])には、キリスト教[[宣教師]]の京都追放を命じた。