「オスマン帝国領クレタ」の版間の差分

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[[File:Crete - ethnic map, 1861.jpg|thumb|260px|1861年頃のクレタ島の地図。「トルコ人」(ムスリム)は赤、「ギリシア人」(キリスト教徒)は青。島内のムスリムの人口({{仮リンク|トルコ系クレタ人|en|Cretan Turks}})は後の[[ギリシャとトルコの住民交換|住民交換]]で島を去った。]]
 
オスマン帝国による征服の結果として、かなりの人口がオスマン社会における税と市民権における優位のために徐々にイスラーム教に改宗した。当時の人口の見積もりは幅が大きいが、ギリシア独立戦争直前にはムスリムの人口は全体の人口の45パーセントにも達したかもしれない<ref>Excerpts <!--what does "excerpts" mean? If they are direct quotations, they should be in quotation marks-->from William Yale, ''The Near East: A modern history'' by (Ann Arbor, The University of Michigan Press, 1958)</ref>。ムスリムのうちの少数は{{仮リンク|潜伏キリスト教徒|en|crypto-Christian}}{{訳語疑問点|date=2018年12月}}でありキリスト教へと回帰した。しかしある者は不安に駆られクレタ島を去った。1881年の最後のオスマン帝国の人口調査によれば、キリスト教徒は人口の76パーセントであり、ムスリム(言語・文化・祖先と関わりなく一般的に「トルコ人」と呼ばれた)は24パーセントにすぎなかった。しかし、北海岸とモノファスティ(Monofatsi)の3つの大都市においてムスリムの人口は60パーセントを超えた。1923年のクレタ地区におけるキリスト教徒人口は93パーセントであった。残りのムスリムたちは[[ギリシアとトルコの住民交換]]によってトルコへと移住した<ref>A. Lily Macrakis, ''Cretan Rebel: Eleftherios Venizelos in Ottoman Crete'', Ph.D. Dissertation, Harvard University, 1983.</ref>。
 
== 行政区画 ==
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* [https://www.academia.edu/10428584/A_Very_Bad_Place_Indeed_For_a_Soldier._The_British_involvement_in_the_early_stages_of_the_European_Intervention_in_Crete._1897_-_1898 McTiernan, Mick, ''A Very Bad Place Indeed For a Soldier. The British involvement in the early stages of the European Intervention in Crete. 1897 - 1898,'' King's College, London, September 2014.]
 
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[[Category:クレタ島の歴史]]
[[Category:オスマン帝国の歴史]]