「平清盛」の版間の差分

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== 死後 ==
清盛の死後、嫡男の重盛はすでに病死し、次男の基盛も早世していたため、平氏の棟梁の座は三男の宗盛が継いだが、全国各地で相次ぐ反乱に対処できず、後白河法皇の奇謀に翻弄された上、院政勢力も勢力を盛り返すなど、平氏は次第に追いつめられていった。しかも、折からの[[飢饉]]([[養和の大飢饉]])という悪条件なども重なって、[[寿永]]2年([[1183年]])、[[倶利伽羅峠の戦い]]で平氏軍が壊滅した後、義仲軍の攻勢の前に成す術無く都落ちする。そして[[元暦]]2年([[1185年]])の[[壇ノ浦の戦い]]に敗れて平氏は滅亡した。
 
== 評価 ==