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种暠は承光宮で[[皇太子]]を監督する役目に抜擢された。[[中常侍]]の高梵が単駕で太子を出迎えようとしたが、高梵が証明となるものを持ち合わせていなかったため、太傅の[[杜喬]]らは疑って従おうとせず、押し問答で困惑しきりであった。种暠は手剣を構えて車に向き合い、「太子は国の後継ぎであり、人命の係るところである。いま常侍は皇帝の命令書なしにやってきたが、どうして悪巧みでないと知れようか。命令違反の咎めを受けるなら私が今日死ぬだけである」といった。高梵は恐れて手向かいせず、宮殿に馳せ戻ってこのことを上奏した。詔書がやってきて、太子はようやく行くことができた。このことで杜喬や順帝も种暠の沈着さに感心した。
 
种暠は[[益州]]刺史として出向した。刺史の職にあること3年、諸民族の統御に意を用い、[[岷山山脈|岷山]]の部落を漢に服属させた。白狼・槃木・唐菆・邛・僰の諸国は、前刺史の朱酺の死後から関係が絶えていたが、种暠が赴任して以降、関係は改善に向かった。ときに[[永昌郡|永昌]]太守の劉君世<ref>『[[後漢書]]』杜喬伝</ref>が紋様のある蛇を黄金で鋳造して梁冀に献上した。种暠は劉君世を逮捕して上奏したが、[[廷尉]]と御史の2府は梁冀の権勢を恐れて事件化しようとしなかった。[[巴郡]]の服直が数百人を集めて「天王」を自称すると、种暠は巴郡太守の応承とともに討捕に向かったが敗れ、官吏や民衆に被害を出した。梁冀はこれに乗じて种暠を陥れようと、种暠と応承を逮捕させた。[[太尉]]の[[李固]]がふたりを弁護する上奏をおこない、太后の[[順烈皇后ナン|梁太后]]も口添えしたので、种暠と応承の罪は赦され、免官のみにとどまった。
 
後に[[涼州]]の[[羌]]が反抗の動きをみせると、种暠は涼州刺史となり、民衆の支持をえた。任期を終えて朝廷が种暠を召還しようとすると、涼州の官吏や民衆たちが宮殿を訪れて留任を求めたため、太后は感心して留任を許した。种暠は1年間涼州にとどまり、[[漢陽郡|漢陽]]太守に転出することになった。涼州の諸民族の男女たちが漢陽郡の境まで种暠を送り、种暠と互いに別れを惜しんだため、千里の道行きを車に乗ることができなかった。漢陽郡に到着すると、羌や諸民族の教化につとめ、侵犯や掠奪を禁止した。後に使匈奴中郎将に転じた。[[遼東郡]]の[[烏桓]]が反乱を起こしたため、种暠は遼東太守に転じた。烏桓は進んで帰服し、种暠を郡境で迎えた。後に种暠は事件で罪を問われて免官され、洛陽に帰った。
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== 子女 ==
* [[チュウ岱|种岱]]
* [[チュウ払|种]]
 
== 脚注 ==