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=== 二宮事件 ===
{{See also|二宮事件}}
孫和が太子となると、皇后と王を立てるべきという意見が広がった。孫権は一度これを拒絶したが、同年8月に孫覇を魯王にし、孫和と同じ宮殿に住まわせ両人をほぼ同等に処遇するようになった。闞沢は孫和と孫覇の両方の教育係を務めた時期があるという(「闞沢伝」)。この措置に対し批判が向けられると、孫権は居住する宮殿を別にし、それぞれに幕僚を付けさせる措置をとった。こうして[[立太子]]を期待する孫覇派と、[[廃太子]]を防ごうとする孫和派の対立を招いた。殷基の『通語』によると孫和側の重臣として、[[陸遜]]・[[諸葛恪]]・[[顧譚]]・[[吾粲]]・[[朱拠]]・[[滕胤]]・[[朱績|施績]]・[[丁固|丁密]]の名が挙げられている。
 
こうした孫和側の動きに反発したのは全公主であった。全公主と王夫人の仲は悪く、孫覇派に付いている。孫権が病気になったとき、孫和を派遣して桓王廟(孫策の廟)に参籠して祝福を祈った(『資治通鑑』)。しかし途中で孫和が妻の叔父である[[張休]]の屋敷に招かれていた。全公主は孫権に対し「孫和は廟に行かずに、妻の実家で謀議を廻らしている」と報告した。結果、孫権の孫和に対する寵愛も衰えた。
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[[陳寿]]は「優れた資質を備え、自ら修養に努めたが、非業の死を遂げることとなった。悲しいことである」と評している。
 
== 三国志演義では ==
小説『[[三国志演義]]』では、孫権の次男という設定になっている。長兄孫登の死後皇太子になった。やがて全公主の中傷により廃嫡され、憤死した。後に三弟の孫亮が皇太子として擁立される。
 
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