「大坂の陣」の版間の差分

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豊臣側は兵糧と弾薬が足りず、徳川方が仕掛けた心理戦や櫓・[[陣屋]]などに撃ち込まれた砲弾で将兵は疲れが溜まる。本丸への砲撃が淀殿の侍女8人に命中、8人共死んだ。淀殿は「大坂城は10年でも持ち堪えられる」と言っていたが、あまりに凄惨な光景を見て和議に応ずる事を決める(16日)。
 
[[朝廷]]から[[後陽成天皇|後陽成上皇]]の命により、17日に[[武家伝奏]]の[[広橋兼勝]]と[[三条西実条]]を使者として家康に和議を勧告した。家康はこれも拒否し、朝廷の介入を許さず、あくまで徳川主導で交渉を進めた<ref group="注釈">この時家康はかねてから公家たちに求めていた「古今礼義式法之相違」に関する意見の提出を両名に督促しており、豊臣氏との合戦と並行して翌年制定される[[禁中並公家諸法度]]の制定に向けて意見の集約を進めていたことが分かる([[橋本政宣]] 「禁中并公家中諸法度の性格」『近世公家社会の研究』 吉川弘文館、2002年、ISBN 4642033785 P541-543)。</ref>。
 
交渉は18日より徳川方の[[京極忠高]]の陣において、家康側近の本多正純、[[阿茶局]]と、豊臣方の使者として派遣された淀殿の妹である[[常高院]]との間で行われ、19日には講和条件が合意、20日に誓書が交換され和平が成立した。同日、家康・秀忠は諸将の砲撃を停止させている。