「遣唐使」の版間の差分

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!次数||出発||帰国||使節|| nowrap="nowrap" |その他の派遣者||船数||備考
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|align="center"|1||舒明2年<br />([[630年]])||舒明4年<br />([[632年]])||[[犬上御田鍬]](大使)・[[薬師恵日]]|| || ||犬上御田鍬は614年に[[遣隋使]]として渡航経験がある。帰国の際、の送使[[高表仁]]来日僧[[旻]]帰国。新羅の送使も帰国に同行。8月に対馬に帰着。高表仁は10月初に難波津に着き、翌年1月末に帰国した
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|align="center"|2||白雉4年<br />([[653年]])||白雉5年<br />([[654年]])||第1船・[[吉士長丹]](大使)・[[吉士駒]](副使)/第2船・[[高田根麻呂]](大使)・[[掃守小麻呂]](副使)||[[道昭]]・[[定恵]]・[[粟田真人|道観(のちの粟田真人)]](以上留学僧)・[[坂合部石積]](学生)・[[韓智興]]?・[[趙元宝]]?||align="center"|2||第1船は121人、第2船は120人。出航より一月半後の7月、第2船往途の薩摩沖で遭難。よって往路は南島コースであったと考えられる。高田根麻呂ら100余名が死亡または行方不明。生き残った5人は破材一枚に捕まり6日間の漂流の後に島に漂着。島で竹を伐採して筏を作り帰還。第1船は唐に到着し皇帝に拝謁。654年7月に新羅・百済の送使と共に帰還したため、復路は朝鮮半島経由コースだったと考えられる。このときは「西海使」(にしのみちのつかい)と『[[日本書紀]]』巻第二十五に記されている<ref>『日本書紀』孝徳天皇 白雉5年7月24日条</ref>。
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|align="center"|3||白雉5年<br />([[654年]])||斉明元年<br />([[655年]])||[[高向玄理]]([[押使]])・[[河辺麻呂]](大使)・[[薬師恵日]](副使)||[[書麻呂]](判官)|| ||align="center"|2||高向玄理は608年の遣隋使で留学し、30年を大陸で学び、隋の滅亡と唐の建せずを目の当たりにしている。その後も646年に[[遣新羅使]]として外交派遣された人材であり、「大使」より格上の「押使」であった。しかしこの渡航で唐でし帰国できず。654年2月に出発。往路は北路で山東省に到着し、長安にて高宗と謁見した。謁見の際、日本の位置や神話を尋ねられた。唐側の記録として『[[旧唐書]]』に「[[永徽]]5年12月に、倭国が[[メノウ|瑪瑙]](めのう)を献上した」とある<ref>『旧唐書』高宗本紀</ref>。654年8月、帰朝
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|align="center"|4||斉明5年<br />([[659年]])||斉明7年<br />([[661年]])||[[坂合部磐鍬|坂合部石布]](大使)・[[津守吉祥]](副使)||[[伊吉連博徳|伊吉博徳]]||align="center"|2||7月3日に出航。8月11日に博多を出て江南路を選択した。第2船の副使・津守吉祥らは10月1日に越州(浙江省紹興)に着き、[[駅馬]]で長安に入り洛陽にて皇帝に拝謁。大和朝廷の服属国民として[[蝦夷]]人男女を伴っており、皇帝に献上している。同年11月1日、冬至の儀に参加。しかし一行はその後、[[韓智興]]の従者([[東漢草足嶋]]か?)による讒言、唐と百済の戦役の都合などにより暫く長安に幽閉・抑留される。660年8月の百済滅亡により9月12日に抑留は解かれ、19日に落陽へ向かった。一方の第1船は往途で9月13日に百済の南の島に到着した。9月15日日没後、逆風で遭難し、南海の島「爾加委」に漂着し略奪に遭い、大使の坂合部石布が殺された。[[東漢長阿利麻]]・坂合部稲積ら生き残った5人は島の船を奪って大陸に至り、役人に護送されて落陽に運ばれた。その後どうなっていたかは不明だが、長安の2船の一行同様、落陽にて抑留されていたと推測される。監禁が解け落陽に移動した津守吉祥らと翌660年10月19日に再会した。11月1日に捕虜となった百済の[[義慈王]]ら王族・貴族の50人(『旧唐書』では58人)が唐の朝廷に護送されるのを目撃。24日、長安を出発。翌661年4月1日に越州から帰国の途についた。7日、[[舟山郡島]]の[[須岸島]]南岸に到着。翌8日夜明けに出発するも、暴風に遭い9日間漂流。[[耽羅]]([[済州島]])に漂着し、耽羅国王子の[[阿波伎]]等9人を伴って帰国(『[[遣耽羅使]]』も参照)。この回の遣唐使に関しては、[[伊吉博徳#『伊吉博徳書』|『伊吉博徳書』]]・『難波吉士男(津守吉祥)人書』が日本書紀に引用されたために道中が比較的詳しい。
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|align="center"|13||天平宝字3年<br />([[759年]])||天平宝字5年<br />([[761年]])||colspan="2"|[[高元度]](迎入唐大使使)・[[内蔵全成]](迎入唐使判官)||align="center"|1||藤原清河を迎えるために派遣された。そのため、通常の4分の1である遣唐使船1隻、総勢99名の規模。[[安史の乱]]の混乱の影響を考え、渤海経由で入唐を図る。大使の高元度は[[高句麗]]王族系の渡来人。[[渤海使]]・楊承慶の帰国と共に渤海路より渡航するも、乱の影響により唐に入る人数をさらに減らすこととなり、副使の内蔵全成らは同年10月に渤海から帰国するも暴風で遭難し対馬に漂着、12月に難波津に到着。高南申は清河が渤海に依頼していた上表文を携えていた。一方の高元度ら11人は渤海国の遣唐使節と共に入唐するも、乱による混乱および政治的駆け引きなどのため清河の帰国・渡航を止められ、目的は果たせず。高元度は唐に船を新造してもらい、送使[[沈惟岳]]と共に[[蘇州]]から761年8月に出発、南路で大宰府に帰国。帰国に際し唐の[[皇帝]]・[[粛宗 (唐)|粛宗]]より、安史の乱で不足した武器類の(材料の)補充を日本側は求められているため、清河の身柄は交換条件にされた可能性がある。この唐の要請を受けて日本側は10月から安芸国で4隻の船を建造すると共に、武器材料となる牛角の徴発と備蓄を始めている。『[[遣渤海使]]』項目も参照。また渤海経由とした理由については、[[藤原仲麻呂]]が推進していた[[新羅征討計画]]を渤海国と連携して進める目的もあったとされる。
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|align="center"|(14)||天平宝字5年<br />([[761年]])||align="center"| - ||[[仲石伴]](大使)・[[石上宅嗣]](副使)|| [[中臣鷹主]](遣唐判官)|||3||762年3月に遣唐副使が[[石上宅嗣]]から[[藤原田麻呂]]に交代<ref>『続日本紀』天平宝字6年3月1日条</ref>。4月、予定されていた船4隻を安芸から回航する際に1隻が座礁、破損したため使節の規模縮小を余儀なくされ、同時に正副大使の仲石伴・藤原田麻呂は解任。遣唐判官の中臣鷹主が遣唐大使に任ぜられた。
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|align="center"|(15)||天平宝字6年<br />([[762年]])||align="center"| - ||colspan="2"|[[中臣鷹主]](送唐客使)・[[藤原田麻呂]](副使)・[[高麗広山]](副使)||2||規模を縮小した上で、唐使[[沈惟岳]]を送らんとするも夏のうちは風浪に恵まれず、安史の乱の影響もあり渡海できないまま7月に正式に中止<ref>『続日本紀』天平宝字6年7月是月条</ref>。翌年正月17日、[[渤海使]]の[[王新福]]が混乱する唐の情勢を伝え、これを鑑みた朝廷は沈惟岳をしばらく大宰府に留まらせるよう命令。大使らは都へ帰還を命じられる。その後、沈惟岳は日本に帰化し、姓と官位が与えられた。
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|align="center"|16||宝亀8年<br />([[777年]])||宝亀9年<br />([[778年]])||[[小野石根]](持節副使・大使代行)・[[大神末足]](副使)<br />/[[佐伯今毛人]](大使)・[[大伴益立]](副使)・[[藤原鷹取]](副使)||[[海上三狩]](遣唐判官)・[[大伴継人]](遣唐判官)・[[韓国源]] (遣唐録事)||align="center"|4||776年4月に任命された大使・佐伯今毛人らは博多を4月に出航し肥前松浦まで到達するも順風が吹かないことを理由に一旦博多に帰還。8月、佐伯は来年夏への延期を奏上して許可され、11月に大宰府から都に帰還し節刀を返上。この間も遣唐副使の大伴益立や判官・海上三狩らは大宰府に留まり入唐の期を窺っていたがおり人々は留まった副使らの姿勢を褒めた。しかし12月に大伴益立・藤原鷹取の両副使は更迭され、替わって副使に小野石根と大神末足が任命された。しかし翌777年4月の佐伯は都を出た時点で病と称し、難波津より先に行くことを拒否。同年6月に副使であった小野石根が大使代行として、大使不在の弁明の書を携えて使節団は渡航した。光仁天皇から藤原清河に対しての帰朝の命令の書簡が出されるなど、藤原清河を迎える目的もあった使節だが、小野石根らがようやく長安入りしたこの年5月頃、清河は既に死去していた。なお同年1月には阿倍仲麻呂も死去。6月24日に遣唐使一行は出航し、7月3日に揚州に到着。長安を目指すも、安禄山の乱による混乱から、長安行きの人数を制限される。翌778年1月に長安着。3月に皇帝[[代宗 (唐)|代宗]]へ拝謁し、同年4月に長安を離れて9月に順次帰国の途に就いた。同年9月5日に出航した第1船は8日に嵐で遭難し大破し破断。小野石根、唐使[[趙宝英]]ら死亡。同船に乗っていた大伴継人や藤原清河と唐人の間に生まれた娘の[[藤原喜娘]]ら40余名は2つに裂けた船の片方の残骸にしがみついて漂流。[[肥前国]][[天草郡]]西仲嶋(現在の[[鹿児島県]][[出水郡]][[長島 (鹿児島県)|長島]])に漂着し、11月に[[平城京]]に入った。第4船の海上三狩らは[[楚州 (江蘇省)|楚州]][[塩城県]]から出帆するが<ref>『続日本紀』宝亀9年11月13日条</ref>、耽羅島([[済州島]])に流れ着いてしまい島人に略奪され船を留置された。ここで録事・韓国源ら40余名は島からの脱出に成功し、同年11月に[[薩摩国]][[甑島郡]]へ到着した<ref>『続日本紀』宝亀9年11月10日条</ref>。三狩はそのまま残されたが、[[日本]]からの要請を受けて[[捜索]]していた[[新羅]]に発見される<ref>『続日本紀』宝亀11年正月5日条</ref>。翌779年2月に三狩らを迎えるために大宰少監・[[下道長人]]が[[遣新羅使]]に任ぜられ<ref>『続日本紀』宝亀10年2月13日条</ref>、同年7月に三狩は帰国<ref>『続日本紀』宝亀10年7月15日条</ref>。大神末足らは779年3月に帰国。なお佐伯・大伴益立・藤原鷹取らは777年中から779年にかけて官界に復帰している。778年11月、遣唐使の帰国に伴って来日した唐使の慰問を元副使の藤原鷹取が行っている。
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|align="center"|17||宝亀10年<br />([[779年]])||天応元年<br />([[781年]])6月||[[布勢清直]](送唐客使)||||align="center"|2||唐使[[孫興進]]を送る。