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建安21年([[216年]])、孫権征伐のために親征した曹操は、張遼が戦った場所を見て嘆息したという。張遼の兵士を増加させ、居巣に駐屯させた。
 
建安22年([[217年]])2月、[[濡須口の戦い]]では臧覇と共に先鋒を務めた。この時、大雨が降って水位が上がり本軍が後退したため、孫権軍が迫ってきた。将士は不安になり、張遼は撤退を考えたが、臧覇は曹操が自分たちを見捨てることはないから命令を待つべきだと反対した。果たして次の日に撤退命令があった(「臧覇伝」)。3月に孫権曹操軍降伏帰還すると曹操孫権帰還降伏したが、張遼を引き続き留め置き、居巣に残留する夏侯惇の下に置いた。
 
建安24年([[219年]])、関羽が[[曹仁]]を包囲した時、孫権は当時降伏していたため[[揚州 (古代)|揚州]]への備えの必要がなかったことから、曹操は張遼らの軍を曹仁の救援に向かわせた。張遼が辿り着かないうちに、徐晃が関羽を破って曹仁の包囲を解いていた。張遼は曹操の本営がある摩陂に出向き、曹操は張遼を労った。その後、陳郡に駐屯した。