「秩父宮雍仁親王」の版間の差分

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画像:秩父宮雍仁親王 (1940年12月5日)
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== 生涯 ==
[[ファイル:Pinus sylvestris 31.jpg|サムネイル|left|160px|お印に選ばれた若松]]
[[ファイル:Chichibunomiya Yasuhito.jpg|thumb|right|220px|秩父宮雍仁親王 (1940年12月5日)]]
[[File:Chichibunomiya's palace.jpg|thumb|赤坂表町の秩父宮御殿]]
 
幼少の頃は兄の[[昭和天皇|裕仁親王]](当時)、弟の一人であった[[高松宮宣仁親王|宣仁親王]]と共に育ち、3人とも仲は良かったと言う。兄弟の中では最も活溌であり、そのことは1つ違いの兄とよく比較された。玩具の取り合いで兄と喧嘩し、先に手を出すことも多々あった。しかし兄がいない時は小心であり、自ら「内弁慶であった」と、戦後に回想している。
 
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== 死後 ==
[[File:The funeral of the Prince Yasuhito.JPG|thumb|200px220px|葬儀の様子]]
薨去に先立ち[[遺書]]をしたためており、その中で「[[死体|遺体]]を[[解剖]]に附すこと」、「[[火葬]]にすること」、「[[葬儀|葬式]]は如何なる[[宗教]]にもよらない形式とすること」を指示していた。勢津子妃が勅許を求めたところ、昭和天皇は「秩父宮の遺志を尊重するように」とこれを即座に許可、皇族としては異例の[[病理解剖]]が行われた。