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=== 衆議院議員 ===
[[1993年]]6月18日、野党が提出した[[内閣不信任決議]]案は自民党羽田孜派が賛成したことから可決し、衆議院が[[嘘つき解散|解散]]。当時、愛知県には羽田派に属する議員がいなかったため、父の[[江崎真澄]]は[[岐阜県第1区 (中選挙区)|旧岐阜1区]]の[[松田岩夫]]を窓口に羽田派と接触を行っていた。真澄は引退表明時に「鉄磨は羽田派から出る」と言い切っており<ref>『中日新聞』1993年6月22日付朝刊、27面、「“羽田印”に揺れる2人 江崎鉄磨氏と石田芳弘氏 愛知3区」。</ref>、江崎は数日間悩んだ末、6月22日に羽田孜の新党から立候補すること入りを決断し、自民党を離党した<ref>『中日新聞』1993年6月23日付朝刊、1面、「羽田新党 江崎氏公認の方針 衆院愛知3区 石田氏は出馬断念」。</ref>。7月18日に行われた[[第40回衆議院議員総選挙]]に[[新生党]]公認で[[愛知県第3区 (中選挙区)|旧愛知3区]]より立候補し、初当選を果たした。[[1994年]]、[[新進党]]結成に参加<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGKKZO1962549003082017M11000/ 沖縄・北方 消費者 江崎鉄磨氏(2017年8月4日、[[日本経済新聞]])]</ref>。
 
[[小選挙区比例代表並立制]]が導入された[[1996年]]の[[第41回衆議院議員総選挙]]では[[愛知県第10区|愛知10区]]から新進党公認で立候補し、再選される。新進党解党後の[[1998年]]には[[自由党_(日本_1998-2003)|自由党]]の結党に参加し、財団法人[[日本武道館]]の評議員も務めた。