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[[646年]]、ソンツェン・ガンポ王は太宗の[[高句麗]]遠征([[唐の高句麗出兵]])勝利の祝賀に大論ガル・トンツェンを遣わした。
[[647年]]、[[ヴァルダナ朝]]の王[[ハルシャ・ヴァルダナ]](戒日王)が亡くなり混乱したヴァルダナ朝へ派兵し、政権を簒奪した{{仮リンク|アラナシュ|zh|阿羅那順}}(阿羅那順)を捕らえ、ヴァルダナ国を属国とした。この時、唐の使者[[王玄策]]を保護している。更に大軍を率いて当時分裂状態に陥っていた[[ガンジス川]]北岸の小国を幾つか帰服させて年賦金を課した後、中部インドのマガダ国まで侵攻すると、大した抵抗に出遭うことも無く仏教寺院を略奪して多くの聖遺物を奪い、ガンジス川北岸一帯を支配下に置き帰還している。649年、唐の太宗が死去し[[高宗 (唐)|高宗]]が即位すると、王は馬都尉(公主の夫が受ける官位)、西海郡王の官位、多数の礼物を受ける。さらに太宗の霊前に十五種の金銀珠玉を供え、さらに賓王の位と礼物を贈られた。 また唐の優れた工芸技術(蚕種、酒造、製紙、製墨)を取り入れるため唐から工匠の派遣を得た。ソンツェン・ガンポ王は吐蕃を発展させたが、晩年は功臣の処刑が続き、{{仮リンク|スムパ|zh|蘇毗|en|Sumpa|label=スムパ族}}(蘇毗)平定に大功のあった{{仮リンク|ニャン・マンポジェシャンナン|en|Nyang Mangpoje Shangnang|zh|娘·芒布杰尚囊}}({{lang-bo|མྱང་མང་པོ་རེང་ཞང་སྣང་}} {{lang|en|nyang mang po rje shang snang}}、{{lang-zh-short|娘·芒布傑尚}})や、[[蔵蕃]]を帰順へ導いた謀臣の{{仮リンク|キュンポプンサ|en|Khyungpo Pungse Sutse|zh|琼波·邦色}}({{lang-bo|ཁྱུང་པོ་ཕྲུང་སད}} {{lang|en|khyung po spung sad}}、{{lang-zh-short|瓊波·邦色}})を粛清している。[[649年]]末、病のため死去した。
 
===ガル一族の執権と唐との戦争===
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===唐との講和と南詔の冊封===
[[File:回鶻帝国.png|350px|サムネイル|8世紀後半の吐蕃と周辺国]]
[[704年]]、ティドゥ・ソンツェン王が[[南詔]]親征中に戦死すると、生まれたばかりの[[ティデ・ツグツェン]]<ref>岩尾,2010,p.19</ref>(在位:[[704年]] - [[755年]]、別名:メー・アクツォム)が即位し、祖母({{仮リンク|チマル|en|Thrimalö}})方のブロ{{Sfn|山口瑞鳳|1988|p=31}}氏が政権を掌握したが政権は安定せず、[[デレンパノナンジャ]]({{lang-bo|ལྡེག་རེན་པའ་མནོནསྣང་གྲགས}} {{lang|en|ldeg ren pah mnonsnang rjags}}、{{lang-zh-short|岱仁巴農扎}})や[[ケガドナン]]({{lang-bo|ཁེ་རྒད་མདོ་སྣང་}} {{lang|en|khe rgad mdo snang}}、{{lang-zh-short|開桂多}})が反乱を起こし、吐蕃王族が国王に就いていた属国のネパールも背いた。チマルは乱を鎮圧し、吐蕃は唐の[[則天武后]]に妃として公主を求めた。唐はこれに応じ、吐蕃は[[710年]]に[[中宗 (唐)|中宗]]の養女である{{仮リンク|金城公主|zh|金城公主}}を迎える。大論(宰相)であった[[シャンツァントエルトサイビン]]({{lang-bo|ཞང༌བཙན༌ཏོ༌ེར༌ལྟ༌ས༌ིབྱན}} {{lang|en|shang btsan to er lt sa ibyn}}、{{lang-zh-short|尚賛咄}})が公主を迎えに長安へ赴いたとき、宮中で馬球試合が行われたという。
 
チマルの没後、[[712年]]に大論{{仮リンク|バー・クリジシャンネン|en|We Trisig Shangnyen}}({{lang-bo|དབའས་ཁྲི་གཟིགས་ཞང་ཉེན}} {{lang|en|dbavs khri gsigs shang nyen}}、{{lang-zh-short|韋·乞力徐尚年}})が任命され摂政したが、国威は振るわなかった。[[713年]]には以前から要請していた河西九曲の地(現:[[青海省]]東南部黄河曲部、[[同仁県]]周辺)を金城公主の斎戒沐浴地として唐から贈られた。