「相楽総三」の版間の差分

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珍巣項 (会話 | 投稿記録)
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[[慶応]]2年([[1866年]])、28歳にして[[京都]]に上り志士活動を続けた際、[[西郷隆盛]]、[[大久保利通]]らと交流を持つようになり、慶応3年([[1867年]])、西郷の命を受けて、江戸近辺の[[倒幕]]運動に加わった<ref name="bakumatsu_135"/>。
 
京では慶応3年([[朝廷1867年]]が幕府に見切りをつけて慶応3年10)1013日そして14日には[[討幕の密勅]]が薩摩藩と[[長州藩]]に下された。13日にが、[[密勅大政奉還]]を賜っが実現し薩摩はすぐこと行動よりそれは取消された。あくまで武力倒幕開始目指る。総三は[[西郷隆盛]]は、倒幕大義名分受けて活動を開始し失い三田の薩摩藩邸幕府根拠地と挑発して意思を同じくする[[倒幕]]開戦に導こうとした。西郷の指示により、[[尊皇攘夷益満休之助]]論者の浪士を全国から多数招き入れた。彼らは薩摩藩士[[伊牟田尚平]]や[[益満休之助]]、そして相楽が中心となって、江戸指導薩摩藩邸受け拠点とし同志を募って関東の擾乱を企てた<ref>長谷川、p.77</ref>。相楽らは江戸で放火や、掠奪・暴行などを繰り返して幕府を挑発した。その行動の指針となったお定め書きにあった攻撃対象は「幕府を助ける商人と諸藩の浪人、志士の活動の妨げになる商人と幕府役人、唐物を扱う商人、金蔵をもつ富商」の四種に及んだ。加えて、[[出流山挙兵]]を始めとする3つの騒擾を起こしたが、いずれも[[渋谷和四郎]]らが率いる幕府の軍勢に鎮圧された<ref>長谷川、p.197</ref>。なお、相楽たちの軍資金は[[豪商]]を襲って得たものであった
 
相楽たちの挙兵は目論見どおり旧幕府方を刺激し、[[庄内藩]]と旧幕府軍による[[江戸薩摩藩邸の焼討事件]]に発展した。相楽を始めとする28-29名は辛くも藩邸を脱出し、[[品川宿|品川]]沖に停泊する薩摩藩の運搬船[[翔凰丸]]に乗って[[紀伊国]]に逃れた<ref>長谷川、p.317</ref>。焼き討ちは[[鳥羽・伏見の戦い]]のきっかけとなった。[[水原二郎]]らから焼き討ちの報告を受けた西郷は、相楽たちの功を称賛したという<ref>長谷川、p.379</ref>。
慶応3年([[1867年]])10月、討幕の密勅を根拠として、西国と東国で同時挙兵する構想が練られていた。相楽たちは関東3か所で挙兵する計画を立てていたが、その後、[[大政奉還]]が実現したことにより密勅は取消された<ref name="gakken">『ビジュアル幕末維新 「日本の夜明け」を目指した激動の時代を追う!!』pp.76-77</ref>。密勅の取消により[[薩摩藩]]は江戸薩摩藩邸宛てに関東での'''攪乱工作の停止'''を指示し、大政奉還の翌日にも「'''鎮静'''」するように念を押している。にもかかわらず、相楽たちは指示をことごとく無視して出流山と萩野山中で挙兵し、いずれも鎮圧されている<ref name="gakken"/>。相楽たちの軍資金は[[豪商]]を襲って得たものであった。相楽たちの挙兵は旧幕府方を刺激し、[[庄内藩]]と旧幕府軍による[[江戸薩摩藩邸の焼討事件|江戸薩摩藩邸焼き討ち事件]]に発展している<ref name="gakken"/。これが、[[鳥羽・伏見の戦い]]のきっかけとなった。なお、当時の西郷の手紙では薩摩藩邸の焼き討ちの結果に狼狽している様が残っており、西郷は浪士隊の行動を掌握し切れていなかった。
 
江戸を脱出した相楽たちは、慶応4年([[1868年]])1月、[[戊辰戦争]]が勃発すると、近江の[[金剛輪寺]]で赤報隊を結成し、赤報隊一番隊は東海道先鋒総督府の指揮下に入り、[[桑名]]への進軍を指令された<ref name="gakken">『ビジュアル幕末維新 「日本の夜明け」を目指した激動の時代を追う!!』pp.76-77</ref>。しかし相楽は、東山道鎮撫総督府への所属替えを希望し、2月上旬には薩摩藩兵の付属になるよう指示を受けていたが、ここでも相楽は独断で[[東山道]]に進んで「御一新」と「旧幕府領の当年分、前年未納分の年貢半減」を布告している<ref name="gakken"/>。年貢半減の布告は朝廷の了解を得ていたが、のちに撤回されている<ref name="gakken"/>。
総三を始めとする28名は辛くも藩邸を脱出し、[[品川宿|品川]]沖に停泊する薩摩藩の運搬船[[翔凰丸]]に乗って[[紀伊国]]に逃れた<ref name="gakken"/>。
 
江戸を脱出した相楽たちは、慶応4年([[1868年]])1月、[[戊辰戦争]]が勃発すると、近江の[[金剛輪寺]]で赤報隊を結成し、赤報隊一番隊は東海道先鋒総督府の指揮下に入り、[[桑名]]への進軍を指令された<ref name="gakken"/>。しかし相楽は、東山道鎮撫総督府への所属替えを希望し、2月上旬には薩摩藩兵の付属になるよう指示を受けていたが、ここでも相楽は独断で[[東山道]]に進んで「御一新」と「旧幕府領の当年分、前年未納分の年貢半減」を布告している<ref name="gakken"/>。年貢半減の布告は朝廷の了解を得ていたが、のちに撤回されている<ref name="gakken"/>。
 
相楽は指示に従わず独立行動を続行し、[[碓氷峠]]を目標に進軍する。相楽たち赤報隊の度重なる独立行動や独断専行を危惧した新政府は赤報隊に帰還を命じたが、相楽たちは命令に従わなかった。これにより、相楽たち赤報隊は官軍の名を利用して沿道から勝手に金穀を徴収し、略奪行為を行う「'''偽官軍'''」と見なされることになる<ref name="gakken"/>。東山道軍は、赤報隊捕縛命令を信州諸藩に通達し、かねてより赤報隊の振る舞いに反感を抱いていた[[小諸藩]]など近隣諸藩が連合を組んで赤報隊を攻撃した。このとき相楽は、今まで無視してきた東山道総督府からの召喚にようやく応じて隊を留守にしていた<ref name="gakken"/>。小諸藩から赤報隊による勝手な金策や、暴行行為を通報されたことにより、出頭した相楽は信濃国[[下諏訪宿]]で捕縛される(相楽総三・赤報隊史料集)<ref name="gakken"/>。
 
同年3月、相楽を含む赤報隊幹部8人は、下諏訪で処刑された相楽は享年30。妻の照はこれを聞き、息子の河次郎を総三の姉に託し、総三の後を追って自殺した<ref name="bakumatsu_135"/>。後に総三の首級は地元出身の[[国学者]]で総三とも親交があった[[飯田武郷]]の手によって盗み出され、秘かに葬られた。
 
明治3年([[1870年]])、下諏訪に相楽塚(魁塚)が建立された。長い間、偽官軍の汚名を受けていたが、孫の[[木村亀太郎]]の努力により名誉が回復された。昭和3年([[1928年]])に正五位が贈られ、翌昭和4年([[1929年]])、[[靖国神社]]に合祀された。
 
[[青山霊園]]立山墓地に墓所がある。