「相楽総三」の版間の差分
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[[慶応]]2年([[1866年]])、28歳にして[[京都]]に上り志士活動を続けた際、[[西郷隆盛]]、[[大久保利通]]らと交流を持つようになり、慶応3年([[1867年]])、西郷の命を受けて、江戸近辺の[[倒幕]]運動に加わった<ref name="bakumatsu_135"/>。
相楽たちの挙兵は目論見どおり旧幕府方を刺激し、[[庄内藩]]と旧幕府軍による[[江戸薩摩藩邸の焼討事件]]に発展した。相楽を始めとする28-29名は辛くも藩邸を脱出し、[[品川宿|品川]]沖に停泊する薩摩藩の運搬船[[翔凰丸]]に乗って[[紀伊国]]に逃れた<ref>長谷川、p.317</ref>。焼き討ちは[[鳥羽・伏見の戦い]]のきっかけとなった。[[水原二郎]]らから焼き討ちの報告を受けた西郷は、相楽たちの功を称賛したという<ref>長谷川、p.379</ref>。
江戸を脱出した相楽たちは、慶応4年([[1868年]])1月、[[戊辰戦争]]が勃発すると、近江の[[金剛輪寺]]で赤報隊を結成し、赤報隊一番隊は東海道先鋒総督府の指揮下に入り、[[桑名]]への進軍を指令された<ref name="gakken">『ビジュアル幕末維新 「日本の夜明け」を目指した激動の時代を追う!!』pp.76-77</ref>。しかし相楽は、東山道鎮撫総督府への所属替えを希望し、2月上旬には薩摩藩兵の付属になるよう指示を受けていたが、ここでも相楽は独断で[[東山道]]に進んで「御一新」と「旧幕府領の当年分、前年未納分の年貢半減」を布告している<ref name="gakken"/>。年貢半減の布告は朝廷の了解を得ていたが、のちに撤回されている<ref name="gakken"/>。▼
▲江戸を脱出した相楽たちは、慶応4年([[1868年]])1月、[[戊辰戦争]]が勃発すると、近江の[[金剛輪寺]]で赤報隊を結成し、赤報隊一番隊は東海道先鋒総督府の指揮下に入り、[[桑名]]への進軍を指令された<ref name="gakken"/>。しかし相楽は、東山道鎮撫総督府への所属替えを希望し、2月上旬には薩摩藩兵の付属になるよう指示を受けていたが、ここでも相楽は独断で[[東山道]]に進んで「御一新」と「旧幕府領の当年分、前年未納分の年貢半減」を布告している<ref name="gakken"/>。年貢半減の布告は朝廷の了解を得ていたが、のちに撤回されている<ref name="gakken"/>。
相楽は指示に従わず独立行動を続行し、[[碓氷峠]]を目標に進軍する。相楽たち赤報隊の度重なる独立行動や独断専行を危惧した新政府は赤報隊に帰還を命じたが、相楽たちは命令に従わなかった。これにより、相楽たち赤報隊は官軍の名を利用して沿道から勝手に金穀を徴収し、略奪行為を行う「'''偽官軍'''」と見なされることになる<ref name="gakken"/>。東山道軍は、赤報隊捕縛命令を信州諸藩に通達し、かねてより赤報隊の振る舞いに反感を抱いていた[[小諸藩]]など近隣諸藩が連合を組んで赤報隊を攻撃した。このとき相楽は、今まで無視してきた東山道総督府からの召喚にようやく応じて隊を留守にしていた<ref name="gakken"/>。小諸藩から赤報隊による勝手な金策や、暴行行為を通報されたことにより、出頭した相楽は信濃国[[下諏訪宿]]で捕縛される(相楽総三・赤報隊史料集)<ref name="gakken"/>。
同年3月、相楽を含む赤報隊幹部8人は、下諏訪で処刑された。相楽は享年30。妻の照はこれを聞き、息子の河次郎を総三の姉に託し、総三の後を追って自殺した<ref name="bakumatsu_135"/>。後に総三の首級は地元出身の[[国学者]]で総三とも親交があった[[飯田武郷]]の手によって盗み出され、秘かに葬られた。
明治3年([[1870年]])、下諏訪に相楽塚(魁塚)が建立された。長い間、偽官軍の汚名を受けていたが、孫の[[木村亀太郎]]の努力により名誉が回復され
[[青山霊園]]立山墓地に墓所がある。
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