「土居方玄」の版間の差分

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[[伊予国]](現在の[[愛媛県]])久米郡石井郷南土居(現在の[[松山市]])に生まれる。家系は伊予豪族である[[河野氏]]の支族で、方玄は土居家9代目当主である。また土居下野守(しもつけのかみ)方玄(まさつね)と呼ばれることもある。父は通方、子は方貞(孫九郎)。
 
年称不明、河野家第39代当主河野通直の命で[[長宗我部氏]]討伐の為、上浮穴郡(現在の[[内子町]]小田)の本川野村というところに移り、河野家の家来である大野城主の[[大野直昌]]の家来となった。方玄は[[本川城]]を築き、その当主となった。
 
1574年(天正二年)8月、睨み合いを続けていた長宗我部軍の総大将、[[長宗我部元親]]より話し合いで和睦を結びたいとの一報が大野軍に入る。方玄含む大野軍は和睦を結ぶため、土佐(現在の高知県)と伊予との国境にある[[笹ケ峠]]を目指す。ところが丁度国境に差し掛かったころ、兵を隠しておいた長宗我部軍に囲まれてだまし討ちにされてしまう([[笹ケ峠の戦い]])。これにより土居下野守方玄は討死、63歳であった。