「テレサ・カレーニョ」の版間の差分

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ホワイトハウスでの演奏は1863年(スペイン語版、英語版参照)。1866年ではリンカンの没後。
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[[カラカス]]に生まれたテレサは父からピアノの手ほどきを受けた後、ドイツ系ベネズエラ人ピアニストのフリオ・オエネに師事する。[[1862年]]、カレーニョ家はベネズエラ国内の政変のために[[アメリカ合衆国]]に移住し、テレサは[[ニューヨーク]]で[[ルイス・モロー・ゴットシャルク]]の指導を受ける。同年11月28日、わずか9歳にして、ニューヨーク・アーヴィン・ホールにてデビューを果たす。
 
[[18661863年]]には[[ホワイトハウス]]で[[エイブラハム・リンカーン]]に御前演奏を披露した。同年[[パリ]]に上陸し、[[フレデリック・ショパン]]の高弟[[ジョルジュ・マティアス]]と、[[アントン・ルビンシテイン]]にそれぞれ入門。[[ヨーロッパ]]全土で演奏活動に着手し、[[1876年]]には[[オペラ]]歌手としてもデビューする。[[1885年]]になるまでベネズエラに帰国せず、しかもほんの束の間の滞在に留まったと言われている。[[1889年]]にヨーロッパに引き返し、同年11月18日に[[ベルリン]]にデビュー。この地を拠点にさらに演奏旅行に勤しみ、[[1890年]]までの演奏旅行によって名声の頂点を築く。[[20世紀]]初頭には、2度の世界的な演奏旅行を行なったが、1917年に体調を崩し、[[マンハッタン]]96番街のウェスト・エンド・アベニュー749に位置する住宅「デッラ・ロッビア」に永眠した。
 
カレーニョは男性遍歴も華麗であり、4回の結婚歴がある。[[1873年]]から[[1875年]]まで[[ヴァイオリン]]奏者の[[エミール・ソーレ]]と最初の結婚をして、この間に娘エミリタを儲けている。[[1876年]]から[[1891年]]まではイタリアのオペラ歌手、[[ジョヴァンニ・ターリャピエトラ]]と[[事実婚|内縁関係]]にあって2児を儲けた。そのうち娘のテレシータ・ターリャピエトラ=カレーニョは、母親と同じく有名なピアニストになった。カレーニョはカラカスでターリャピエトラと共同でイタリア・オペラを興行し、自らも歌手として舞台に上がった。[[1892年]]から[[1895年]]までは[[オイゲン・ダルベール]]と再々婚し(ダルベール自身、結婚回数の多さで名高い)、さらにオイゲニアとヘルタの2女を儲ける。[[1902年]]から没年までは、かつての義弟[[アルトゥーロ・ターリャピエトラ]]と結婚した。