削除された内容 追加された内容
→‎回数: 第12回の判官、高麗大山と巨万大山は同一人物
48行目:
|align="center"|(11)||天平18年<br />([[746年]])||align="center"| - ||[[石上乙麻呂]](大使)|| ||align="center"|-||停止。緊張関係にあった新羅への牽制と、黄金の輸入を目的としたものと想像されている。
|-
|align="center"|12|| nowrap="nowrap" |天平勝宝4年<br />([[752年]])|| nowrap="nowrap" |天平勝宝6年<br />([[754年]])||[[藤原清河]](大使)・[[吉備真備]](副使)・大伴古麻呂(副使)||[[高麗大山]](遣唐判官)・[[大伴御笠]](遣唐判官)・[[巨万大山]](遣唐判官)・[[布勢人主]](遣唐判官)・[[藤原刷雄]](留学生)||align="center"|4||752年に唐に入り、[[長安]]で皇帝の[[玄宗 (唐)|玄宗]]に拝謁。753年の正月に長安の[[大明宮]]にて[[玄宗 (唐)|玄宗]]臨御の、[[朝貢]]諸国の使節による[[朝賀]]に出席。当初、[[日本]]の席次は西畔(西側)第二席、第一席[[吐蕃]]の下であり、東畔第一席が[[新羅]](二席[[イスラム帝国|大食国]]の上)であった。すなわち新羅より下位に置かれていたことから、大伴古麻呂は「長く新羅は日本に対して朝貢を行っていることから席順が義に適っていない」として抗議し、日本と新羅の席を交換させている<ref>『続日本紀』天平勝宝6年正月30日条)</ref>。753年11月、4隻で帰路に就く。この際に[[鑑真]]が来日を図るが、唐当局に鑑真の搭乗を禁止された。このため第1船の清河は鑑真を船から降ろすが、第2船の古麻呂が鑑真を秘密裏に乗せる。また、在唐35年で唐の高官となっていた阿部仲麻呂が帰国の途に就いた。第1・第2・第3船は琉球に到達する。ここから3隻は本土を目指し、まず種子島を目標とするも、藤原清河と阿倍仲麻呂らの第1船は出航直後に座礁、その後暴風雨に遭い安南(現在のベトナム中部)に漂着、現地民の襲撃に遭いほとんどが客死する中、清河と仲麻呂らは755年に長安に帰還し、その後は唐に使える。大伴古麻呂・鑑真・[[法進]]らを乗せた第2船は[[屋久島]]、[[薩摩国]]などを経由して帰還。吉備真備の第3船は屋久島までは第2船と同行するも漂流、[[紀伊国]]に漂着。帰還に成功した船2隻は「播磨」「速鳥」の名を持ち、758年にこの2船に対して従五位下の位が与えられた。判官・布勢人主ら第4船は途上で船が火災に遭うも、舵取の[[川部酒麻呂]]の勇敢な行動もあり鎮火。薩摩国に到着。
|-
|align="center"|12|| nowrap="nowrap" |天平宝字3年<br />([[759年]])|| nowrap="nowrap" |天平宝字5年<br />([[761年]])||[[高元度]](迎入唐大使)・[[内蔵全成]](迎入唐使判官)||[[羽栗翔]](遣唐録事)||align="center"|1||藤原清河を”迎える”ために派遣された。そのため、通常の4分の1である遣唐使船1隻、総勢99名の規模。[[安史の乱]]の混乱の影響を考え、渤海経由で入唐を図る。大使の高元度は[[高句麗]]王族系の渡来人。[[渤海使]]・[[楊承慶]]の帰国と共に渤海路より渡航。渤海に到着したが、乱の影響により唐に入る人数を大使の高元度や録事(通訳)の羽栗翔ら11人に減らすこととなり、残りの副使・内蔵全成ら80余人は引き返すこととなった。同年10月に渤海から渤海使の[[高南申]]・副使の[[高興福]]と共に帰国するも、暴風で遭難し対馬に漂着、12月に難波津に到着。高南申は清河が渤海に依頼していた上表文を携えていた。一方の高元度ら11人は渤海国の遣唐使節と共に入唐するも、乱による混乱および政治的駆け引きなどのため清河の帰国・渡航を止められ、目的は果たせず。高元度は唐に船を新造してもらい、送使[[沈惟岳]]と共に[[蘇州]]から761年8月に出発、南路で大宰府に帰国。帰国に際し唐の[[皇帝]]・[[粛宗 (唐)|粛宗]]より、安史の乱で不足した武器類の(材料の)補充を日本側は求められているため、清河の身柄は交換条件にされた可能性がある。この唐の要請を受けて日本側は[[安芸国]]に[[上毛野広浜]]らを派遣し10月からで4隻の船を建造すると共に、武器材料となる牛角の徴発と備蓄を始めている。『[[遣渤海使]]』項目も参照。また渤海経由とした理由については、[[藤原仲麻呂]]が推進していた[[新羅征討計画]]を渤海国と連携して進める目的もあったとされる。なお、一行は録事で唐人と[[羽栗吉麻呂]](第9回で入唐)のハーフで唐生まれである羽栗翔を清河の下へ残留させている。その後の羽栗翔の行方は不明だが、兄弟の[[羽栗翼]]もまたこの後の第16回で入唐している。