「遣唐使」の版間の差分
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→回数: 第12回の判官、高麗大山と巨万大山は同一人物 |
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|align="center"|(11)||天平18年<br />([[746年]])||align="center"| - ||[[石上乙麻呂]](大使)|| ||align="center"|-||停止。緊張関係にあった新羅への牽制と、黄金の輸入を目的としたものと想像されている。
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|align="center"|12|| nowrap="nowrap" |天平勝宝4年<br />([[752年]])|| nowrap="nowrap" |天平勝宝6年<br />([[754年]])||[[藤原清河]](大使)・[[吉備真備]](副使)・大伴古麻呂(副使)||[[高麗大山]](遣唐判官)・[[大伴御笠
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|align="center"|12|| nowrap="nowrap" |天平宝字3年<br />([[759年]])|| nowrap="nowrap" |天平宝字5年<br />([[761年]])||[[高元度]](迎入唐大使)・[[内蔵全成]](迎入唐使判官)||[[羽栗翔]](遣唐録事)||align="center"|1||藤原清河を”迎える”ために派遣された。そのため、通常の4分の1である遣唐使船1隻、総勢99名の規模。[[安史の乱]]の混乱の影響を考え、渤海経由で入唐を図る。大使の高元度は[[高句麗]]王族系の渡来人。[[渤海使]]・[[楊承慶]]の帰国と共に渤海路より渡航。渤海に到着したが、乱の影響により唐に入る人数を大使の高元度や録事(通訳)の羽栗翔ら11人に減らすこととなり、残りの副使・内蔵全成ら80余人は引き返すこととなった。同年10月に渤海から渤海使の[[高南申]]・副使の[[高興福]]と共に帰国するも、暴風で遭難し対馬に漂着、12月に難波津に到着。高南申は清河が渤海に依頼していた上表文を携えていた。一方の高元度ら11人は渤海国の遣唐使節と共に入唐するも、乱による混乱および政治的駆け引きなどのため清河の帰国・渡航を止められ、目的は果たせず。高元度は唐に船を新造してもらい、送使[[沈惟岳]]と共に[[蘇州]]から761年8月に出発、南路で大宰府に帰国。帰国に際し唐の[[皇帝]]・[[粛宗 (唐)|粛宗]]より、安史の乱で不足した武器類の(材料の)補充を日本側は求められているため、清河の身柄は交換条件にされた可能性がある。この唐の要請を受けて日本側は[[安芸国]]に[[上毛野広浜]]らを派遣し10月からで4隻の船を建造すると共に、武器材料となる牛角の徴発と備蓄を始めている。『[[遣渤海使]]』項目も参照。また渤海経由とした理由については、[[藤原仲麻呂]]が推進していた[[新羅征討計画]]を渤海国と連携して進める目的もあったとされる。なお、一行は録事で唐人と[[羽栗吉麻呂]](第9回で入唐)のハーフで唐生まれである羽栗翔を清河の下へ残留させている。その後の羽栗翔の行方は不明だが、兄弟の[[羽栗翼]]もまたこの後の第16回で入唐している。
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