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久世家は[[関宿藩|関宿]]のほかに[[和泉国]][[大鳥郡]]にも領地があり、由哲はそこの[[代官]]を務めたことがあって、長男・鈴木貫太郎はその時生まれている。関宿は[[江戸時代]]、[[利根川]]と[[江戸川]]の分岐点にあり、交通の要衝として重視されていた。弟は、[[彰義隊]]に入り[[上野戦争]]で[[官軍]]の兵士を沢山斬って戦い続けた大柄な剣豪(全国[[指名手配]]されるも[[東北地方|東北]]で[[豪商]]の一人娘を娶り商人として生存し[[恩赦]]まで[[明治維新#中央政府|政府]]には所在不明だった)。
 
鈴木の家には子供が無かったので、由哲は倉持家から[[養子]]に入った。倉持家は[[足利氏]]([[室町幕府]][[将軍家]])の[[被官]]で、[[鎌倉時代|鎌倉期]]から足利氏[[所領]]の管理を行い、三河国[[額田郡]]内に所領を持っていた[[家柄]]である。晩年は[[関宿町]][[市町村長|町長]]を務めた。
 
== 系譜 ==
; '''鈴木氏'''
: 鈴木家に子供が無かったため、由哲が倉持家から養子入り(倉持家は[[足利氏]]家臣の[[家柄]]で[[足利氏|足利家]]管財文書係)。由哲の長男は第42代[[内閣総理大臣]]の[[鈴木貫太郎]]。[[]]の一(はじめ)は[[農林水産省|農林省]]山林局長、[[侍従]]次長、[[外務省]]出入国管理庁長官等を歴任した。[[靖国神社]][[宮司]]を務めた[[鈴木孝雄]][[陸軍大将]]は次男。[[関東都督府]]外事総長、[[久邇宮]]御用掛の[[鈴木三郎 (拓務官僚)|鈴木三郎]]は三男。四男の永田茂[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[中佐]]は軍務での無理がたたり、40代前半で死去した(別冊[[歴史読本]]57『日本の名家・名門人物系譜総覧』、[[新人物往来社]]、2003年)。
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由哲━━┳貫太郎━┳ 一 ━┳哲太郎━┳真理絵