「シチ川の戦い」の版間の差分

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==背景==
モンゴル軍の侵攻による[[リャザン]]包囲戦|リャザン陥落[[:ru:Оборона Рязани|(ru)]](1237年12月21日)、[[コロムナ]]でのルーシ連合軍の敗戦[[:ru:Битва под Коломной (1238)|(ru)]](1238年1月1日)、そして[[ウラジーミル大公国]]への侵入を受けて、大公ユーリーは[[シチ川 (ヴォルガ川水系)|シチ川]]近くの森(現[[ヤロスラヴリ州]]の北西)へ出発し、ここへ新たな軍勢を集めるよう命じた。首都の[[ウラジーミル (ウラジーミル州)|ウラジーミル]]にはユーリーの家族とピョートル・オスレデュコヴィチの指揮する守備隊を残した。『[[ラヴレンチー年代記]]』によれば<ref>[http://www.krotov.info/acts/12/pvl/lavr33.htm {{lang|ru|Лаврентьевская летопись}}]</ref>、ユーリーは兄弟の[[ヤロスラフ2世 (ウラジーミル大公)|ヤロスラフ]]の軍が援軍に来ることを期待したとされる。しかしシチ川の戦いへの参加者の中に、ヤロスラフの名は記されていない。
 
一方、モンゴル軍は1238年2月7日にウラジーミルを占領[[:ru:Оборона Владимира|(ru)]]した後、主力部隊は[[ユーリエフ・ポリスキー]]、[[ペレスラヴリ・ザレスキー]]を襲い、さらに[[トヴェリ]]、[[トルジョーク]]へと向かった。またブルンダイの率いる第2軍は、大公ユーリーの甥、ユーリ-・コンスタンチノヴィチの所有する[[ヴォルガ川]]流域の都市へと向かった。