「ヴァイマル共和政」の版間の差分

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これを受けて[[ゲオルク・フォン・ヘルトリング]]内閣は総辞職し、[[マクシミリアン・フォン・バーデン]]が新首相となった。マクシミリアン内閣の閣僚は社会民主党、[[中央党 (ドイツ)|中央党]]、[[進歩人民党]]の3党の議員が構成しており、ドイツ帝国最初の政党内閣といえるものであった。マクシミリアンはこの内閣の成立を基礎としてアメリカの[[ウッドロウ・ウィルソン]]大統領と交渉したが、ウィルソンはドイツの民主化が不十分、すなわち皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の退位が必要であるとして拒否した。
 
この頃から皇帝の退位を求める声が高まり始め、11月3日には[[キール (ドイツ)|キール]]において水兵が反乱を起こし、町は[[レーテ]](労兵協議会)によって掌握された。その後次々に各地に反乱が起き、11月7日には[[ミュンヘン]]で革命政権が成立して[[バイエルン王国|バイエルン]]王[[ルートヴィヒ3世 (バイエルン王)|ルートヴィヒ3世]]が退位した。社会民主党は皇帝の退位が無ければ事態が収拾できないと主張したため、11月9日にマクシミリアン首相が皇帝の退位を独断で宣言、首相の座を社会民主党党首[[フリードリヒ・エーベルト]]に譲った。エーベルトは穏健な立憲君主制政府を目指していたが、一方、かねてから戦争に反対していた独立社会民主党の急進的な2派、[[カール・リープクネヒト]]と[[ローザ・ルクセンブルク]]に率いられた[[スパルタクス団]]と、労働組合組織を基盤とする{{仮リンク|革命的オプロイテ|de|Revolution%C3%A4re_Obleute}}は革命を目指し、新政府の樹立を狙っていた。同日午後2時ごろ、この動きを察知した社会民主党の幹部[[フィリップ・シャイデマン]]は、議会前に集まった群衆に、独断で共和政の樹立を宣言した。エーベルト首相は「何の権限があって共和政宣言をしたのか」とシャイデマンを叱責したが、すでに帝政復活を行える情勢ではなかった。
 
=== 人民委員会会議 ===