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:祖母・峯は川端家出身で、川端家27代目・川端三右衛門幾康(1785年生-1861年没)の姉。幾康の長男で川端家28代目・時次郎(1817年生-1840年没)が天保11年(1840年)7月13日に24歳で死去したため、峯の幼い孫・吉川三八郎が川端家に[[養子]]に貰われ、幾康の長男として入籍し、[[文久]]元年(1860年)1月11日に川端家を相続。ちなみに幾康と峯の弟・川端玄了は、黒田家のかもと結婚し、2代目・黒田善右衛門となる。
:川端家の原籍地は、大阪府[[三島郡 (大阪府)|三島郡]][[豊川村 (大阪府)|豊川村]]大字宿久庄小字東村11番屋敷(現・大阪府茨木市宿久庄1丁目11-25)。檀那寺の[[極楽寺 (茨木市宿久庄)|極楽寺]]は、もとは如意寺の一坊舎だった。
:三八郎は、[[嘉永]]7年(1854年)頃に見習[[庄屋]]となり、安政6年(1859年)に庄屋となる。明治になってからは戸長を務めるが、[[茶]]の栽培や[[寒天]]製造などの事業に失敗して、田や山を二束三文で売る。[[易学]]に凝り、[[家相]]論「講宅安危論」を出版しようとしたが叶わず。漢方薬研究もし、「東村山龍堂」という屋号で[[内務省 (日本)|内務省]]から許可を得た数種類の[[漢方薬]]を販売しようとしたが、薬包紙を印刷したまでで立ち消えとなる。雑記「要話雑論集」もある。
:檀那寺(極楽寺)の住職・服部峯雲和尚から[[和歌]]を学び、「萬邦」と号していた。随想集「要話雑論集」の原稿や、「石堂」と号して描いた画手本を遺している。
:三八郎は、黒田孝(1837年生-1860年没)と結婚し、長男・恒太郎を儲けるが、まもなく孝が次の出産時に[[嬰児]]と共に死去したため、孝の妹・カネを後妻とする。カネとの間に4人の子(栄吉、富三郎、ほか)を儲ける。1871年(明治4年)生れの富三郎は1878年(明治11年)に夭折(7歳没)。