「ペルナンブーコ州」の版間の差分

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'''ペルナンブーコ州'''(''Estado do Pernambuco'')は、[[ブラジル]]北東部の[[ブラジルの州|州]]で、州庁所在地は[[レシフェ]]である。北に[[パライーバ州]]、[[セアラー州]]と、西に[[ピアウイ州]]と、南に[[アラゴアス州]]、[[バイーア州]]との州境を接し、東は[[大西洋]]に面している。
 
州域は、[[ポルトガル]]植民地時代の[[カピタン]]領に起源を持つ[[ブラジル]]最古級の地域である。州都[[レシフェ]]都市圏は人口約350万人を擁し、ブラジルでは4番目、世界でも有数の人口密集地帯となっている。→[[世界の都市圏人口の順位]]を参照
 
== 地理・気候 ==
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植民地期以来の初期から繁栄してきた土地であり、各地に古い教会などが多い。また、植民地期以来培われた[[コロニアル]]様式と呼ばれる住民家屋も多く残存する。
 
オランダ植民地期に発展した商人の商館を主とする[[レシフェ]]の旧市街と、古い教会建築遺存する[[オリンダ]]の旧市街は[[世界遺産]]に指定されている(文化遺産)。また、大西洋の絶海の孤島として独特の自然環境を持つ[[フェルナンド・デ・ノローニャ]]島も[[世界遺産]]に指定されている(自然遺産)。
 
== 歴史 ==
=== 16世紀以前 ===
インディオ、[[孤立した言語]]、Huamoé、Karirí、Natú、Pankararú、Tuxá、Xokó、Xukurú
 
=== 植民地時代 ===
==== パウ・ブラジルの時代 ====
[[ブラジル]]に上陸した[[ポルトガル]]人が最初に主要貿易品目としたのが、ブラジル東沿岸地域の森林に産するパウ・ブラジル([[ブラジルボク]])で、[[レシフェ]]とポルト・セグーロ(ES)にインディオとの交易所が設立された。パウ・ブラジルが輸出された時代は[[1500年]]頃から[[1570年]]頃まで続き、これがペルナンブーコ発展の基礎となる。<br />
<br />
[[1532年]]、[[ポルトガル]]国王ジョアン3世がブラジル国土に15のカピタニアを創設、ドゥアルテ・コエーリョがペルナンブーコのカピタンとなる。ペルナンブーコは他のカピタニアに先んじて発展し、ブラジル随一の発展地域となる。
 
==== サトウキビの時代 ====
[[1570年]]頃より、[[サトウキビ]]の栽培がはじまり、ブラジルの主要対外貿易品目となる。[[サトウキビ]]農園の約半数は土壌と気候に恵まれたペルナンブーコの沿岸地域に集中していた。<br />
<br />
[[サトウキビ]]農園はエンジェーニョと呼ばれ、大規模農園領主が独立的な立場で土地を経営するという体制が採られた。アフリカから奴隷を輸入([[奴隷貿易]])し使役する一方、ごく少数のヨーロッパ系白人が支配者層として君臨するという封建的制度は、極端な貧富の差となって今尚この地方に遺風を残し、現代この地域が経済発展する上での足枷となっている。<br />
<br />
[[サトウキビ]]産業が生む利益は[[1690年]]頃の[[サトウキビ]]不況を期に落ち込み、ブラジルの主要産品が金、ダイヤモンドへ移行すると同時にペルナンブーコの経済は停滞、凋落することとなる。
 
==== オランダ領ブラジル ====
[[1581年]][[オランダ]]が独立。スペイン側に就いたポルトガルとも対立し、オランダの海外領土拡大の矛先が[[ブラジル]]に向けられ始める。[[1624年]]、[[オランダ]]が[[バイーア州]]に侵攻するも、1年で撤退。次いで[[1630年]][[レシフェ]]と[[オリンダ]]に侵攻し、オランダ領ブラジルが成立する。[[レシフェ]]([[オリンダ]])はオランダ領ブラジルの首都になり、オランダ西インド会社資本の元、商港都市として発展する。[[ナッサウ家|ヨハン・マウリッツ・ファン・ナッサウ・シーヘン]]の統治下、オランダ領ブラジルは、[[1941年]]までに[[マラニョン州]]までに版図を拡大する。<br />
<br />
オランダの侵攻により、各地のエンジーニョで奴隷として使役されていた黒人が山間部に逃亡し、ベルナンブーコから[[バイーア州]]にかけての山間部にはキロンボと呼ばれる黒人自治による防衛村落が築かれた。<br />
<br />
[[1644年]]ナッサウ伯がオランダに帰還すると西インド会社資本に従属を余儀なくされていた住民が反乱を起こす。[[1964年]]遂に[[オランダ]]が反乱軍に降伏。ポルトガル人の力を借りず自力で領土を解放した[[ブラジル]]の住民が、我々は[[ブラジル人]]であるとアイデンティティを固めた契機となった。
 
==== マスカッテ戦争 ====
[[1710年]][[レシフェ]]の商人の勢力が台頭し、農園領主が勢力を持つ[[オリンダ]]からの分離独立を求めて対立し、戦争となる。農園領主が商人を「行商人(マスカッテ)」と侮蔑的に呼んだことから、マスカッテ戦争と呼ばれる。結果、[[重商主義]]を採るポルトガル本国政府の後押しを受けた[[レシフェ]]の商人側が勝利し、[[レシフェ]]が[[オリンダ]]から分離し、市に昇格。
 
=== 植民地から独立へ ===
==== ペルナンブーコ革命 ====
ナポレオンの出現によりポルトガルが勢力弱めたことを背景に、[[1817年]]商人層に反感を持つ農園領主層がレシフェで革命政府を樹立、フランス、イギリスの支援を期待したが得られず2ヶ月余りで降伏した。オランダからの解放戦争以来ペルナンブーコで燻り続けていた、中央政府に対する反感が表面化した結果であるが、この事件がこの地域の土着主義的傾向を決定付けた。
 
=== 帝政時代 ===
==== 相次ぐ反乱 ====
[[1821年]]オリエンタル地域([[ウルグアイ]])の独立を受けて、[[1824年]]ペルナンブーコを中心に[[パライーバ州]]、[[リオ・グランデ・ド・ノルテ州]]、[[セアラー州]]の[[ノルデスチ]](北東部)諸州が赤道連邦共和国(コンフェデラソン・ド・エクアドール)を宣言。2ヶ月で降伏。<br />
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[[1829年]]ペルナンブーコ州内陸部奥地で反乱。<br />
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[[1831年]]北東部地方で反乱(カバナダの乱)。<br />
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[[1848年]]ペルナンブーコ州で反乱(プライエイラの乱)
 
==== 奴隷の解放 ====
[[1870年代]]からジョアキム・ナブコ(ペルナンブーコ州出身)らにより奴隷制反対運動が起こる。[[1888年]][[5月13日]]黄金法(アウレア法)が可決、黒人奴隷制度の廃止が実現した。ペルナンブーコでは解放奴隷が沿岸の都市部へ移動、または、[[リオデジャネイロ]]など南の発展地域への人口移動が起こると同時に、斜陽であったとはいえ未だサトウキビ産業に依存していた北東部諸州の地域の経済的立ち遅れが決定的になった。
 
==== 相次ぐ旱魃 ====
[[1877年]]-[[1879年]]、[[1888年]]-[[1889年]]、[[1898年]]、[[1900年]]、[[1915年]]と、ペルナンブーコを含む[[ノルデスチ]](北東部)一帯で大規模な旱魃が度々発生し、この地域の困窮に拍車をかけると共に治安が崩壊。盗賊(カンゼイロ)が多発した。中には[[ランピオン]]と呼ばれる義賊も出現し、貧しい農民の側に立って大農園領主と戦った一団もおり、民衆の伝説となって今尚語り継がれている。[[ランピオン]]の思想は、現代になって土地なき農民の運動(MST)にも援用されることとなる。
 
以降、ペルナンブーコは経済的落ち込みから歴史の表舞台への影響力を弱めていく。反中央政権的土着思想もあり、中央から経済支援を計る有力な政治家もあまり出なかったことも災いしている。
 
== 経済 ==
さとうきび、観光
== 文化 ==
 
=== 建築 ===
[[コロニアル]]様式建築、
 
=== 学問 ===
レシフェ法科大学、出身文人、MST(土地なき農民の運動)(オリンダ司教)
 
=== 健康 ===
[[2006年]][[デング熱]]
 
=== 音楽・カーニバル ===
音楽、出身音楽家
 
== 経済 ==
さとうきび、観光
=== 進出企業 ===
 
== 交通 ==
空港国道BR-、バス、メトロ
 
== 出身者 ==
* アウグスト・ド・ヘシーフェ(サッカー選手)
* アルセウ・ヴァレンサ(音楽家)
* アントニオ・ノブレガ(音楽家)
* カピバ(音楽家)
* ジェラルド・アゼヴェード(音楽家)
* シコ・サイエンス(音楽家)
* [[ジュニーニョ・ペルナンブカーノ]](サッカー選手)
* ジョアキム・ナブッコ(学者)
* ジルベルト・フレイレ(学者)
* [[パウロフレイレ]](学者)
* ランピオン(盗賊)
* [[リバウド]](サッカー選手)
* [[ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ]](大統領)
* [[ルイス・ゴンザーガ]](音楽家)
* レニーニ(音楽家)
 
== 関連項目 ==
* [[ブラジル関係記事の一覧]]