「福岡空港」の版間の差分

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*1945年(昭和20年)11月21日 - GHQ 命令により航空庁により運用が再開された<ref>「航空無線」、電波時報、1954/06、P88、山岡杉雄、運輸省航空局無線課長、「20年10月21日通信統制の件と称する連合軍最高司令部の覚書きが発せられ、航空無線援助業務復活の第一歩を踏み出すこととなった。」、「覚書きの内容は「航空援助のため札幌、鹿児島、東京および大阪における4象限式航空路標識施設を直ちに作動するように命令する」という意味のもので、同年11月21日は、名古屋、福岡および天草の4コース・レンジ開設が指令された。」
</ref>。時期不明ではあるが1952年の時点では周波数が変更されており355KHzで出力は600Wであった。また、垂直方向へのマーカービーコン (Zマーカー)75MHz 5W が追加された。AN方式のレンジ・ビーコンで限定的だが方位を識別できた<ref name=":4">「電波時報」、郵政省電波監理局 編、電波振興会発行、1952/6
「東京から福岡まで電波にたぐられて飛ぶ航空機」、山岡杉雄(航空庁無線課長)</ref>。この無線標識を使って悪天候時に板付飛行場(当時)への進入が可能になった。更にGCAと組み合わせることで、悪天候下でも最終進入までが可能になった<ref name=":4" />。
 
当時ティア・ドロップ方式のアプローチによる目視進入コースとGCAによる精密進入方式が設定されていた。
 
「レインヂを利用して降下する方法
 
(福岡)レインヂ上空に4500フィードの高度で飛来し、マーカー受信機でレインヂの上空通過を確認した後直ちに左旋回を行って南コースの方向(185度)へ漸次降下しながら飛行を続け10マイルだけ飛行した地点で高度2500フィートまで降下する。ここで右45度旋回を行い、すなわち230度の方向に向かって水平飛行をし、1分間飛行の後180度(左)旋回を行い、すなわち50度の方向に飛行し、レインヂのコース上まで戻ってくる。ここで左45度旋回してコースにそって5度の方向に進む。そしてこの間漸次高度を下げて再びレインヂの直上に繰るまでに高度を2000フィートとする。れ印字直上通過後左旋回して335度の方向すなわち海上の高校に飛行しつつ最低1025フィートまで高度を下げてこの間に雲下に出る。あとは地上を見ながら板付飛行場に着陸する。もし1025フィートまで高度を下げても雲下にでない場合には180度旋回を行ってレインヂの方向へ高度を上げつつ飛行士、れ印字の上空まで3500フィートの高度を取り管制塔と連絡をとりその指令を待つ。」
 
「GCA地上設備による降下および着陸方式
 
レインヂの上空に3500フィートの高度で飛行して来る。北コースに沿うて5度の方向に降下しつつ飛行する。GCAのPPI指示器上にこの同行がみえるので、GCAから無線電話により正しい高校に飛行しているかどうか通報する。高度1500フィートに下げたならば左旋回を行って230度の方向に向かう。そしてこの高度と方向を保ちつつ、飛行をつづける。GCAのPPI上にはこの同校がよくあらわれている。丁度板付の滑走路の延長線上に来た場合GCAからその旨通知する。飛行機は直ちに155度左旋回してこの方向に進む。この点は滑走路の終端から約8哩の地点でしかも滑走路の延長線上であるのでGCAのPAR (Precision Approach Radar) の上に飛行機の像があらわれる。そこで飛行機はGCAとたえず連絡をとりながら方向および下降の割合を修正しながら下降をつづけて雲下に出て着陸する。」
 
<br /></ref>。この無線標識を使って悪天候時に板付飛行場(当時)への進入が可能になった。更にGCAと組み合わせることで、悪天候下でも最終進入までが可能になった<ref name=":4" />。
* 1945年(昭和20年)米軍機、二又瀬を経て九大農学部の松林に墜落、炎上<ref name=":10">{{Cite book|author=福岡市|title=福岡市史. 第8巻 (昭和編 後編 4) 第二章 板付基地/p543|date=1978/3|year=1978|accessdate=|publisher=|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。
* 1947年(昭和22年)5月 - 逓信省航空保安部の地方機関として板付支所が開設される<ref name=":1">「福岡空港の概要」, 国土交通省大阪航空局福岡空港事務所発行, 2004年4月, P4. 「沿革」</ref>。