「織田信長」の版間の差分

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次郎丸 (会話 | 投稿記録)
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南蛮とは別に、中国に対する強い憧れを有していたという説もある{{Sfn|谷口克広|2013|pp=132-133}}。[[宮上茂隆]]は、安土城建築のあり方から信長の中国趣味が伺えると主張しているという{{Sfn|谷口克広|2013|pp=132-133}}。信長の中国への強い関心のため、安土城天守閣の多くの部分では[[唐様]]建築が採用されたといい{{Sfn|岡垣頼和・浅川滋男|2010|p=42}}、また、信長の建てた[[摠見寺]]は中国の山水画の画題・[[瀟湘八景]]のうち「遠時晩鐘」を現したものであるともいう{{Sfn|岡垣頼和・浅川滋男|2010|pp=34-35}}。ただし、谷口克広は、信長が中国への憧れを持っていたという説は根拠不十分であると述べている{{Sfn|谷口克広|2013|pp=132-133}}。
 
=== 女性観・男色 ===
信長がその妻や側室たちとどのような関係にあったかを具体的に伝える史料は乏しい{{Sfn|勝俣鎮夫|2003|pp=1-3}}。近年では、歴史学者の[[勝俣鎮夫]]が、明智光秀の妹が信長の側室であり、信長の「意思決定になんらかの影響を与える存在」であったのではないかという説を立てている{{Sfn|勝俣鎮夫|2003|pp=3-4}}。
 
なお、羽柴秀吉が子に恵まれない正室・[[高台院|ねね]]に対して辛く当たっていることを知ると、ねねに対して励ましの手紙を送っていることが知られる<ref>宮本義己「北政所の基礎知識」(『歴史研究』456号、1999年)</ref><ref>宮本義己「戦国時代の夫婦とは」(『歴史研究』488号、2002年)</ref>{{Efn|なお、この古文書は昭和初期までは信長の直筆と思われてきたが、右筆の[[楠木正虎|楠長諳]]の筆によるものである<ref>桑田忠親「豊臣秀吉の右筆と公文書に関する諸問題」」(『史学雑誌』52巻3・4号、1941年)</ref>}}。
 
<br /><!---足利将軍家に制度として [[昵懇衆]]がいたように、「昵近する公家衆」の存在が信長が公家と親しかったことの証拠になるかは怪しく、出典もないためコメントアウト。
信長が男色を嗜んだかどうかについては、直接的証拠は無い。『利家夜話』には、若き日の前田利家が信長と同衾していたという男色を示唆する逸話がある<ref>[{{NDLDC|953320}} 近代デジタルライブラリー「利家夜話三巻」pp.7]</ref>{{Sfn|谷口克広|1998|pp=49-50}}{{Efn|なお、後の史料である[[加賀藩]]編纂『亜相公御夜話』<!---利家夜話の別書名--->には、[[前田利家]]との関係が「鶴の汁の話(信長が若い頃は利家と愛人関係であったことを武功の宴会で披露し、利家が同僚達に羨ましがられたという逸話)」として残されている}}。
 
しかし、谷口克広は、この逸話を指摘しつつも、信長と利家・森蘭丸ら近習たちとのあいだに肉体関係があったことは、確実だとは言えないと述べる{{Sfn|谷口克広|1998|pp=49-50}}。とはいえ、谷口によれば、当時の風習などを考えても、信長たちがいわゆる[[男色]]関係にあった可能性は非常に高い{{Sfn|谷口克広|1998|pp=49-50}}。
<!---足利将軍家に制度として [[昵懇衆]]がいたように、「昵近する公家衆」の存在が信長が公家と親しかったことの証拠になるかは怪しく、出典もないためコメントアウト。
=== 人々との関係 ===
{{複数の問題