「関ヶ原の戦い」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
25行目:
 
== 決戦までの経緯 ==
=== 豊臣家内部の対立とその背景 ===
秀吉の死後、豊臣政権の政治体制は秀吉の独裁から幼少の後継者秀頼を五奉行[[五大老]]のメンバーによって支える集団運営体制へと移行する。しかし秀吉死後の政治抗争の過程でこの体制は徐々に崩壊してゆき、戦役の結果により消滅することになる。
 
政争の原因については以下のようなものが想定されているが、関ヶ原の戦いにおける東西の対立関係は複雑なものであり、各大名の動向を決定した要因は多岐にわたるものと考えられる<ref>{{Cite journal|和書|author=林千寿|title=関ヶ原合戦における細川家: その動向と動機」(『|journal=熊本史学|issue=76・77号|year=2000年)}}</ref>。また地方での戦闘は主力決戦が政治面も含めて決着した慶長5年10月以降も行われており、必ずしも政権中央での政治対立に直結したものでは無い<ref>[http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/22302/1/27-0027.pdf/ 林千寿「慶長5年の戦争と戦後領国体制の創出」]</ref>。
 
==== 中央集権派と地方分権派の対立 ====
太閤検地の実施とそれにともなう諸大名領内への豊臣直轄領(豊臣蔵入地)の設置<ref>[[森山恒雄]]『[[豊臣氏]]九州蔵入地の研究』</ref><ref>藤木『天下統一と朝鮮侵略』p.355</ref>{{refnest|name=kurairi|藤木『天下統一と朝鮮侵略』p.347-358<ref group="注釈">藤木は「太閤蔵入地をめぐる政権中枢の大名たちの暗闘のなかに、すでに関ケ原戦への予兆をはっきりと読み取ることができる」と述べている。</ref>}}、大名内部で発生した諸問題への介入によって、豊臣政権(中央)による地方大名への支配力強化を進めようとする[[石田三成]]・[[増田長盛]]らの強硬・集権派と、これに反対する[[浅野長政]]らの宥和・分権派との対立<ref>{{Cite book|和書|author=朝尾直弘|title=将軍権力の創出』(|publisher=岩波書店|year=1994年、p.|pages=93以降)}}</ref>が抗争の背景にあったとする説である。
 
一方、[[戸谷穂高]]は宥和・分権派として長政の名が挙げられている点について、「その論拠は一切示されておらず」強硬・集権派との「対立構図自体にも再考の余地が見だされる」としている<ref>{{Cite journal|和書|author=戸谷穂高|title=天正・文禄期の豊臣政権における浅野長吉」(『|journal=遙かなる中世|issue=21号|year=2006年)}}</ref>。文禄2年長政は甲斐へ国替えとなり伊達・南部・宇都宮・成田らの東国諸大名を与力とするが、それ以降、運上金増収を目的とした大名所有の鉱山への支配強化や、日本海海運の掌握を進め<ref>{{Cite book|和書|author=曽根勇二|title=近世国家の形成と戦争体制|publisher=校倉書房|year=2004}}</ref>、また[[宇都宮氏]]・[[佐竹氏]]の改易を主導するなど<ref>{{Cite journal|和書|author=梯弘人|title=豊臣期関東における浅野長政」(『|journal=学習院史学|issue=49号|year=2011年)}}</ref>宥和・分権的とは言い切れない動向も見られる。[[曽根勇二]]はこれら東国における長政の動向を朝鮮出兵のための「総力戦の体制を打ち出した秀吉政権の集権化の実態を示すもの」とし、集権派対分権派の構図に疑問を呈している<ref>{{Cite journal|和書|author=曽根勇二|title=豊臣奉行衆と片桐且元の動きについて-秀吉権力の集権性をめぐって-」(『-|journal=本郷|issue=34号|year=2001年)}}</ref>。
 
==== 朝鮮出兵時の豊臣家臣団内部の対立 ====
慶長・文禄の役の際、石田三成・増田長盛を中心とした奉行衆と加藤清正・黒田長政らを中心とする渡海軍諸将との間に発生した作戦方針・軍功を巡る対立が関ヶ原の戦いの主要因とする説である。この対立関係は豊臣政権において主に政務活動を担当した「文治派」と、軍事活動に従事した「武断派」との対立を含んだものともされる{{sfn|笠谷 1998}}。
 
しかし、両派閥の不仲を示した逸話には一次史料による確認が取れないものや創作と思われるものが多く<ref>{{Cite book|和書|author=中野等|chapter=黒田官兵衛と朝鮮出兵」(『|title=黒田官兵衛 -豊臣秀吉の天下取りを支えた軍師-|publisher=宮帯出版社、2014年)|year=2014}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=中野等|title=唐入り(文禄の役)における加藤清正の動向」(『|journal=九州文化史研究所紀要|issue=53号|year=2013年)}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=金時徳|title=近世文学と『懲毖録』-朝鮮軍記物(壬辰倭乱作品群)とその周辺-」(『-|journal=近世文藝|issue=88号|year=2008年)}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=山本洋|title=『陰徳太平記』編述過程における記事の改変について」(『|journal=軍記と語り物|issue=44号|year=2008年)}}</ref>、一方のちに東軍の属する武将間でも対立関係は存在している。[[巨済島海戦]]の軍功を巡っては加藤嘉明と藤堂高虎が対立しており<ref>{{Cite book|和書|author=津野倫明|chapter=慶長の役における「四国衆」」(『|title=歴史に見る四国|publisher=雄山閣|year=2008年)}}</ref>、蔚山の戦い後、現地諸将より秀吉に提案された戦線縮小案については[[蜂須賀家政]]が賛同したのに対して加藤清正は反対の立場を取っている(慶長3年3月13日付加藤清正宛豊臣秀吉朱印状)<ref>{{Cite journal|和書|author=金子拓|title=肥後加藤家旧蔵豊臣秀吉・秀次朱印状について」(『|journal=東京大学史料編纂所研究紀要|issue=21号、2011年、p.32)|year=2011|page=32}}</ref>。
 
[[中野等]]は三成を中心とする「文治派」対加藤清正らを中心とする「武断派」との対立の構図は、江戸時代成立の軍記物等の二次史料から発して、その後旧来の研究の中でステレオタイプ化したものとしている<ref>{{Cite book|和書|author=中野等|title=石田三成伝』(|publisher=吉川弘文館|year=2017年、p.|pages=523以降)}}</ref>。例えば、賤ヶ岳七本槍のイメージから武功による出世を果たしたと思われがちな加藤清正は国内統一戦の過程において目立った戦績が無く、朝鮮出兵以前においてはむしろ豊臣直轄地の代官や佐々成政改易後の肥後国統治など文官的活動が主であった<ref>{{Cite journal|和書|author=大浪和弥|title=加藤清正と畿内-肥後入国以前の動向を中心に-」(『-|journal=堺市博物館研究報告|issue=32号|year=2013年)}}</ref>。
 
==== 秀次事件による豊臣家及び豊臣家臣団の確執 ====
文禄4年(1595年)6月に発生した秀次切腹事件の影響を受けた諸大名と、秀次粛清を主導した石田三成との間の対立関係が抗争の背景にあった説である。秀次による謀反の計画への参加を疑われた諸大名に対する処罰のいくつかは、家康の仲裁により軽減されている。結果両者は親密な関係を結ぶことになり、一方諸大名は三成を憎むようになったとする。