「北地郡」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
4行目:
秦が[[義渠]]を滅ぼすと、北地郡が置かれた。
 
[[前漢]]のとき、北地郡は[[馬領県|馬領]]・[[直路県|直路]]・[[霊武県|霊武]]・[[富平県利通区|富平]]・[[霊州県利通区|霊州]]・[[朐衍県|朐衍]]・[[方渠県|方渠]]・[[除道県|除道]]・[[五街県|五街]]・[[鶉觚県|鶉觚]]・[[帰徳県|帰徳]]・[[回獲県|回獲]]・[[略畔県|略畔道]]・[[寧県|泥陽]]・[[郁郅県|郁郅]]・[[義渠県|義渠道]]・[[弋居県|弋居]]・[[大要県|大要]]・[[廉県|廉]]の19県を管轄した<ref>『[[漢書]]』地理志下</ref>。
 
[[後漢]]のとき、北地郡は[[涼州]]に属し、富平・泥陽・弋居・廉・参䜌・霊州の6県を管轄した<ref>『[[後漢書]]』郡国志四</ref>。
 
[[晋 (王朝)|晋]]のとき、北地郡は[[雍州]]に属し、[[泥陽県|泥陽]]・[[富平県|富平]]の2県を管轄した<ref>『[[晋書]]』地理志上</ref>。
 
[[北魏]]のとき、北地郡は雍州に属し、富平・泥陽・弋居・雲陽・銅官・土門・宜君の7県を管轄した<ref>『[[魏書]]』地形志二下</ref>。