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戦後は東京・[[銀座]]などを舞台とした風俗小説が人気を博し、一躍流行作家となるが、[[中村光夫]]から「風俗小説」として批判され、論争となった。50くらいまでは私小説的な作品が多かったが、50を過ぎてから、恋愛を中心とした長い小説を書くようになる。また『小説作法』はベストセラーとなり多くの文学青年に読まれた。
 
一方、執筆に行き詰りを感じていた時に[[亀井勝一郎]]から「(丹羽の小説は)[[親鸞]]から逃れようとしているが、結局は親鸞の足元で遊んでいる」と指摘されたことをきっかけに自らの宗教観について付き詰めて考え始め<ref>NHKラジオアーカイブ丹羽文雄インタビュー「自作朗読『顔』、文学と私」(1968(196812122020日収録送)本人談</ref>、のちに『親鸞』『[[蓮如]]』などの宗教者を描いた小説を多く残した。文壇の[[大御所]]的存在で、後進との交流にも熱心であった。1950年代には同人誌『文学者』を主宰、[[瀬戸内寂聴]]や[[吉村昭]]、[[津村節子]]たちを育成した。また[[舟橋聖一]]とは自他共に認めるライバル関係だった。1956年から[[日本文藝家協会]]理事長、61年会長を兼任、69年理事長を辞任し、72年まで会長を務めた。
 
[[1977年]]に[[文化勲章]]受章、[[文化功労者]]。