「古河城」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
→‎遺構: 写真追加
タグ: 2017年版ソースエディター
編集の要約なし
28行目:
 
== 概要 ==
古河城の起源は、[[平安時代]]末期あるいは[[鎌倉時代]]初期に、[[下河辺行平]]が古河の立崎(竜崎)に築いた城館とされている。[[室町時代]]には、[[古河公方]]・[[足利成氏]]が本拠とし、以後、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の関東における中心の一つとなった。[[江戸時代]]には、多くの[[譜代大名]]が入れ替わりで城主を務め、近代城郭として整備された。[[古河藩]]庁が置かれ、行政機能を担うとともに、[[征夷大将軍|将軍]]の[[日光社参]]時の宿として、あるいは[[江戸城]]の北方の守りとしても機能した。[[明治時代]]初期の[[廃城令]]により廃城となり、明治末に開始された[[渡良瀬川]]の改修工事により、残された城跡も大半が消滅した。渡良瀬川の堤防上、[[三国橋 (渡良瀬川)|三国橋]]と[[新三国橋 (国道354号)|新三国橋]]の中間付近に「古河城本丸跡」と書かれた石碑と解説版がある(2018年3月設置以前は標柱のみ)
 
古河城は渡良瀬川の河畔にあり、城の位置付けは人と川との関わりに影響されてきた。渡良瀬川は、上流では主に[[栃木県]]・[[群馬県]]の県境近辺を流れ、下流では太日川(今の[[江戸川]])と名前を変え、[[千葉県]]・[[埼玉県]]の県境近辺を[[利根川]]と並行して、東京湾に流れ出ていた。従って、関東を東西に分かつ境界線であると同時に、河川交通により北関東および東京(江戸)・房総を結ぶ物流と交通の幹線であった。このような地理的条件により、中世および近世には重要拠点とされたが、近代に治水が重視されるようになると、大規模な河川改修事業により、下流の[[関宿城]]と同様に城跡が徹底的に破壊された。
古河城は渡良瀬川の河畔にあり、城の位置付けは人と川との関わりに影響されてきた。
渡良瀬川は、上流では主に[[栃木県]]・[[群馬県]]の県境近辺を流れ、下流では太日川(今の[[江戸川]])と名前を変え、[[千葉県]]・[[埼玉県]]の県境近辺を[[利根川]]と並行して、東京湾に流れ出ていた。従って、関東を東西に分かつ境界線であると同時に、河川交通により北関東および東京(江戸)・房総を結ぶ物流と交通の幹線であった。このような地理的条件により、中世および近世には重要拠点とされたが、近代に治水が重視されるようになると、大規模な河川改修事業により、下流の[[関宿城]]と同様に城跡が徹底的に破壊された。
 
== 歴史・沿革 ==
=== 平安時代末 - 鎌倉時代(城の起源) ===
[[平安時代]]末、[[源頼朝]]に従った武将・[[下河辺行平]]が古河の立崎(竜崎)に城館を築いた(『[[永享記]]』等<ref name = kigen>古河城の起源に関しては、『[[永享記]]』にある足利成氏の古河城奪回時の記述「此古河の城は昔日頼朝卿の御弓の師と聞へし下河辺荘司行平より、代々往ける旧館なり、城南東方に竜崎と云う所に、源三位頼政の廟有り」が有名。『[[鎌倉大草紙]]』にも「[[総州]]下河辺の城」等の記述がある。</ref>)。正確な時期は分らないが、行平が活躍し始めた1180年頃が目安となる。立崎は[[渡良瀬川]]とその東側に広がる沼地にはさまれた半島状の台地であった。<ref name = yarimizu53>鑓水柏翠(1986)、53 - 98頁(下河辺庄古河)</ref><ref name = tsushi97>『古河市史通史編』97 - 122 頁(下河辺庄と古河)</ref><ref name = yorimasa> [http://www.city.ibaraki-koga.lg.jp/0000001543.html 古河市公式ホームページ 史跡と寺院 頼政神社]</ref>  行平を荘司とする[[下河辺荘|下河辺庄]]は、[[茨城県]][[古河市]]、[[千葉県]][[野田市]]、[[埼玉県]][[幸手市]]・[[吉川市]]・[[三郷市]]など、渡良瀬川とその下流の太日川(今の[[江戸川]])に沿って広がっており、河川交通により結ばれていた。<ref name = tsushi97/>
 
41 ⟶ 40行目:
行平以後、[[北条氏]]が[[鎌倉幕府]]の実権を握ると、北条氏の支配下に移ったと考えられる。<ref name = tsushi97/>
 
=== 室町時代 - 戦国時代(古河公方の本拠) ===
[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]、[[北朝 (日本)|北朝]]・[[足利氏]]の拠点の一つであった。<ref name = tsushi141>『古河市史通史編』141 - 147 頁(南北朝の動乱)</ref>
 
54 ⟶ 53行目:
「古河城」という表現は、[[文明 (日本)|文明]]3年([[1471年]])以後、史料にみられるようになる。以前は「古河御陣」が多く用いられていた。<ref name = tsushi163/>
 
=== 江戸時代(日光社参の将軍宿城) ===
[[天正]]18年([[1590年]])、[[豊臣秀吉]]が後北条氏を滅ぼした後には、[[徳川家康]]に従って[[小笠原秀政]]が入部し、古河城の修復・拡張を行った<ref name = tsushi233>『古河市史通史編』233 - 238 頁(近世の開始と大名の交代)、247-248頁(3-1表 古河の歴代藩主)</ref>。以後、江戸時代には[[古河藩]]の藩庁がおかれ、歴代藩主の居城となった。また、古河公方時代とは逆に、東北方面をにらみ、江戸防衛の一端を担った。
 
64 ⟶ 63行目:
また、古河城は度重なる渡良瀬川の洪水に悩まされていたため、他には例を見ない洪水対策マニュアルも整備されていた。<ref>[http://culture.city.ibaraki-koga.lg.jp/rekihaku/sanpo/9908.htm 古河歴史博物館 歴史の散歩 99.08「古河城 大変」]</ref>
 
=== 明治以降(渡良瀬川改修と城の消滅) ===
[[戊辰戦争]]では、藩内の意見を[[勤皇派]]に統一して戦火を避けたが、[[明治]]6年(1873年)に発布された[[廃城令]]によって廃城処分となり、建造物はすべて破却された<ref name = tsushi582>『古河市史通史編』582 - 583 頁(古河城の破壊)</ref><ref name = sampo-sentaku>[http://culture.city.ibaraki-koga.lg.jp/rekihaku/sanpo/9807.htm 古河歴史博物館 歴史の散歩 98.07「勤皇か!佐幕か!幕末古河藩、苦悩の選択」]</ref><ref>[http://culture.city.ibaraki-koga.lg.jp/rekihaku/sanpo/9906.htm 古河歴史博物館 歴史の散歩 99.06「明治の古河城址保存論」]</ref>。[[迅速測図]](明治15年近辺における地図)上で当時の概要を確認できる。
 
155 ⟶ 154行目:
[[天守]]は建てられなかったが、[[土井利勝]]によって、本丸の西北出隅に建てられた「[[御三階櫓]]」と呼ばれた3層4階の[[櫓]]が、実質上の天守となった。高さは約22メートルあり、同様の構造で建てられた[[水戸城]]や[[佐倉城]]の御三階櫓、[[松江城]]の天守(約22.4メートル)もほぼ同じ高さである<ref>西ヶ谷恭弘監修『復原 名城天守』学習研究社 1996年</ref><ref>[[三浦正幸]]監修『【決定版】図解・天守のすべて』学習研究社 2007年</ref>。
 
他にも、桜町曲輪にあった茂平河岸は、城内との物資輸送や人員の移動を担った。また、水掘の周囲に配置された寺社([[永井寺 (古河市)|永井寺]]・[[正定寺 (古河市大手町)|正定寺]]など)は出城としても機能し、城の防衛拠点となっていた。<ref name = shiryo10>『古河市史資料第10集 古河城・鴻巣館』、11-33頁(伝来諸絵図と古河城の構成)</ref>
 
なお、[[古河歴史博物館]]内には精密な古河城下模型が展示されており、城全体の構造が再現されている。<ref name = hakubutsukan/>
 
== 遺構 ==
[[File:Koga-joushi.png|right|thumb|360px|現在の古河城遺構分布]]
[[File:Koga-joshi-aerophotograph.png|right|thumb|240px|河川敷部の古河城痕跡(1974年)・{{国土航空写真}}]]
191 ⟶ 190行目:
 
== 作品 ==
=== 文学 ===
*[[南総里見八犬伝]]: [[江戸時代]]の[[曲亭馬琴]](滝沢馬琴)による読本・南総里見八犬伝の第三輯巻之五には、[[芳流閣]]として[[古河公方]]期の古河城が描写されている。<ref> [http://www.city.ibaraki-koga.lg.jp/cmsfiles/contents/0000000/297/16.pdf 古河市公式ホームページ 広報「古河」No.24 古河風土記(描かれた古河城)] </ref>
*火男: [[吉来駿作]]の歴史小説。[[室町時代]]の[[永享]]13年(1441年)、[[結城合戦]]にともなって起きた古河城攻防戦が題材。主人公は「[[ひょっとこ]]」に似た面相で、火を操る技術を持つ。籠城兵 85人とともに、攻め寄せる[[鎌倉]]・[[関東管領]]軍 10万人を迎え撃った。第5回[[朝日時代小説大賞]]受賞。発行は[[朝日新聞出版]]、2013年。
231 ⟶ 230行目:
[[Category:奥平氏|城]]
[[Category:永井氏|城]]
[[Category:古河土井|城]]
[[Category:堀田氏|城]]
[[Category:藤井松平氏|城]]