「慶長出羽合戦」の版間の差分

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== 発端 ==
{{See also|白石城の戦い}}
豊臣秀吉の死後、慶長5年([[1600年]])6月に[[会津征伐]]のため出陣していた[[徳川家康]]が、7月24日[[下野国|下野]]小山において[[石田三成]]の挙兵を知って反転西上する。家康は[[南部利直]]・[[秋田実季]]・[[戸沢政盛]]・[[本堂氏]]・[[六郷氏]]・[[赤尾津氏]]・[[滝沢氏]]などを[[山形城|山形]]に集結させ、最上義光を主将として米沢口から会津に侵入するようにしていたという。しかし、東軍諸将を先遣隊として東海道より西へ軍を進め、自身は江戸において東軍諸将の引き留め及び西軍の切り崩し工作を行ったため、奥羽諸軍は自領に引き上げ、伊達氏と上杉氏も伊達氏が7月に攻略した[[白石城]]の返還を約し和睦を結んでしまう。事態の急変に対し、最上義光は帰国をする南部氏や出羽の諸氏と起請文を交わし、家康の意向に従うこと、事があらば助け合う事を誓った。ただし、米沢口の主将であった義光は出羽方面における軍事指揮権は引き続き自分が持っていると解したのに対し、諸大名はあくまでも家康の指揮命令によって戦うと理解していた<ref>{{Sfn|阿部哲人「慶長五年の戦局と最上義光」(初出:『山形史学研究』45合併号(2016年)/所収:竹井英文 編『シリーズ・織豊大名の研究 第六巻 最上義光』(戎光祥出版、|2017年) ISBN 978|pp=77-4-86403-257-5))、P77-80(2017年)</ref>80}}
 
9月1日、[[岐阜城]]落城の知らせを受けて、ついに家康が江戸より出陣する。また、[[徳川秀忠]]および最上義光次男[[最上家親]]も上田方面に出陣する。これにより上杉氏に対する家康の脅威は去り、上杉領北方において上杉と対決する姿勢を示すのは義光だけとなり、上杉景勝は義光を無力化しようする。最上氏を滅ぼすか味方に付ければ上杉氏にとっては後顧の憂いが無くなり、家康と決戦に挑めるからである。逆に家康の反転により、上杉氏の北方に孤立した形になった義光は窮状に陥り、上杉方に嫡子を人質として送る等の条件で山形へ出兵しないように要請している<ref>『上杉家記』</ref><ref group="注釈">){{Efn|ただし片桐繁雄(山形大学教育学部学士、元最上義光歴史館事務局長)は、関ヶ原以後この和睦交渉が問題となっていないことや後世の軍記などに取り上げられていないことから、この説を否定している{{Sfn|片桐|2002}}『北天の巨星・最上義光』</ref>}}。しかし義光が[[秋田実季]](東軍)と結び上杉領庄内を挟みうちにしようとする形跡があるのを知った上杉氏は激怒し、出陣を決定する。
 
== 上杉軍出陣 ==
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と、城兵側による抵抗をつぶさに描いている。しかし兵力の差はいかんともし難く、畑谷城はその日のうちに落城、江口は敵軍の中に斬り込んで一戦した後、自害して果てた。しかし江口の抵抗は、上杉軍にも1000人近い死傷者を出させた。
 
9月17日、直江軍とは別に掛入石仲中山口を進軍してきた篠井康信、横田旨俊ら4000人が羽州街道最前線[[上山城]]<ref group="注釈">{{Efn|一説には上山氏の室町期からの居城であり[[山城]]の[[高楯城]]から出撃したともいう。</ref>}}に攻めに取りかかった。守将は最上氏の家臣・[[里見民部]]であり城兵はわずか500ほどにしか過ぎなかったが、里見民部は城門を開けて打って出た。上杉軍は一気に城兵を殲滅するため反撃に出た。城門付近で戦闘が繰り広げられたが、上杉軍の背後から、最上軍が襲いかかった。民部は、あらかじめ少ない兵を分散し、最上義光が与力として増派した[[草刈志摩]]に別動隊を率いさせて城の外に出して待ち伏せさせていたためである。背後を襲われた上杉軍は混乱に陥り、最上勢はこの隙に上杉勢を攻める。上杉方は[[木村親盛]]が[[坂弥兵衛]]なる者に討ち取られた他、[[椎名弥七郎]]をはじめとする将兵の多くが討たれた。一方、最上勢も広河原で追撃中の草刈志摩が鉄砲に撃たれて討ち死にしている。里見は上杉軍400人余りの首を義光に送ったとされる。この上山城攻めの苦戦で掛入石仲中山口からの上杉軍は、同時期に行われていた長谷堂城の戦いで戦闘中の直江本隊とは最後まで合流することが出来なかった。
 
一方、庄内飽海方面では最上方の支援を受けて[[朝日山城 (出羽国)|朝日山城]]に復帰した[[池田盛周]]等が一揆を起こし、酒田東禅寺城主[[志駄義秀]]と対峙したものの、上杉軍を前に一揆勢は敗退し、志駄義秀は[[最上川]]を遡る軍で、下秀久は[[大越 (山形県の峠)|六十里越]]を通る軍で[[村山郡]]の最上川西岸地域に侵入した。9月15日までに[[寒河江城]]・[[白岩氏|白岩城]]が、9月18日までに[[谷地城]]・[[長崎中山氏|長崎城]]・[[山辺城|山野辺城]]などが落城した(『上杉家御年譜』『九月十八日上泉泰綱書状』)。また、直江兼続本隊の別動隊が[[白鷹町|白鷹]]方面から五百川渓谷沿いに進軍し、八沼城・鳥屋ヵ森城などを落として[[左沢楯山城|左沢]]まで進出した後山野辺で本隊と合流している。
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== 長谷堂城の戦い ==
[[ファイル:Keicho-Dewa-Gassen1.jpg|thumb|250px|直江兼続隊の想定進路]]
一方、直江兼続は畑谷城を落としたあと長谷堂城近くの菅沢山に陣を取り、長谷堂城を包囲した。長谷堂城は[[山形盆地]]の西南端にある[[須川]]の支流・[[本沢川]]の西側に位置し、山形城からは南西約8キロのあたりに位置する、山形城防衛において最も重要な支城であった。また、この時点で最上川西岸地域および須川西岸において唯一残る最上氏側の拠点となっていた。つまり、長谷堂城が落ちれば上杉軍は後顧の憂いがなくなり、須川を挟んだ攻防を経て山形城攻城戦に取り掛かることは明らかだった。9月15日最上義光は嫡男[[最上義康]]を当時[[北目城]]([[仙台市]][[太白区]])にいた[[伊達政宗]]に派遣し援軍を依頼。伊達氏の重臣[[片倉景綱]]は両氏を争わせて疲弊させるべきであるとして諌めたのに対し、政宗は「一つは家康のため、一つは山形城にいる母上([[義姫]]・保春院)のために最上を見捨てるわけにはいかない」(『治家記録』)<ref group="注釈">{{Efn|[[遠藤ゆり子]](立教大学大学院文学研究科博士課程後期課程修了(文学博士)。淑徳大学人文学部准教授)は以下のように論じている。『治家記録』は後世の編纂物であり全てが事実であるとは言い切れないものの、義姫(保春院)からも政宗や留守政景(義姫にとっては義弟)に支援を求める働きかけがあったことが確認でき、また現実問題として上杉氏が最上領を併呑すると伊達領が挟撃され、西軍側に寝返る大名家が出る可能性があったため、最上氏支援の判断に踏み切ったと考えられる。</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=遠藤ゆり子|title=慶長五年の最上氏にみる大名の合力と村町―大名の有縁性と無縁性―」(『|journal=日本史研究|issue=第486号、2003年)、のちに|year=2003}}/改題して所収:{{Harvnb|遠藤|2016|loc=「慶長五年の最上氏にみる大名の合力と村町」(『戦国時代の南奥羽社会』吉川弘文館、2016年)に収める}}</ref>。}}と述べ、16日付書状にて政宗は叔父[[留守政景]]を救援に派遣することを決める。
 
この時、長谷堂城は最上氏の重臣・[[志村光安]]以下1000名が守備し、攻め手は直江兼続率いる上杉軍1万8000人。通常攻城戦に必要な兵数は城方の3倍(確実を期すなら10倍とも)と云われているが、その点上杉軍は十分過ぎるほどの兵力を持って攻城戦にあたった。9月15日、兼続は大軍を背景に力攻めを敢行。しかし志村は[[寡兵]]ながらも防戦し、9月16日には200名の決死隊を率い上杉側の[[春日元忠]]軍に夜襲を仕掛ける。これにより上杉勢は同士討ちを起こすほどの混乱に陥り、志村は兼続のいる本陣近くまで攻め寄って、250人ほどの首を討ち取る戦果を挙げた。この時の[[鮭延秀綱]]の戦いぶりには、直江兼続からも「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と言わしめ、後日兼続から褒美が遣わされたという。
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== 仙北・庄内地方の戦い ==
9月下旬になって、秋田実季は最上義光に対して由利衆とともに上杉領である庄内地方へ攻め込むことを通知していた。これに対して義光は仙北地方の小野寺氏を攻撃するように求める返書を出した。しかし、庄内攻撃は家康の直接の指示を受けたものであった。しかも、義光の返書が着く前に実季は家康に使者を出した上で兵の方向を仙北地方に変えて小野寺氏の[[大森城 (出羽国)|大森城]]攻撃に踏み切った。結果的に最上領に攻め込んでいた小野寺氏は後退し、11月には同氏の本拠地である[[横手城]]が陥落したものの、最上義光は自分の下知に従わない実季や由利衆を軍令違反とみなして非難し、自分達は家康の命令指揮下にあると考える実季はこれを「讒言」とみなして反発、両者に確執として残った<ref>{{Sfn|阿部哲人「慶長五年の戦局と最上義光」(初出:『山形史学研究』45合併号(2016年)/所収:竹井英文 編『シリーズ・織豊大名の研究 第六巻 最上義光』(戎光祥出版、|2017年) ISBN 978-4-86403-257-5))、P81|pp=81-87・89(2017年)</ref>,89}}
 
一方、最上軍は降伏した下秀久を先手、義光の嫡男・義康を総大将として庄内地方に進攻すると、[[高舘山|尾浦城]]を攻め落とした。翌慶長6年([[1601年]])3月酒田東禅寺城を攻略し十五里ヶ原の戦い及び奥州仕置で失った庄内地方全域を上杉氏から奪還した。
 
== 戦後 ==
この戦いは、「[[奥羽]]における東西合戦」と言える。最上軍は少ないながらも善戦したことにより戦後家康はその功績を賞賛し、義光が切り取った庄内地方の領有権を認めるとともに佐竹氏との領土交換により[[雄勝郡]]・[[平鹿郡]]に替えて[[由利郡]]を与え、出羽[[山形藩]]は57万石の大藩となった。また、慶長6年(1601年)5月11日に家康が参内した際には[[上田合戦|上田城の戦い]]の功労者である[[森忠政]]、関ヶ原の戦い本戦の功労者である[[井伊直政]]と[[織田長益]]に並んで、義光が供奉者に選ばれている(『言経卿記』)<ref>{{Sfn|阿部哲人「慶長五年の戦局と最上義光」(初出:『山形史学研究』45合併号(2016年)/所収:竹井英文 編『シリーズ・織豊大名の研究 第六巻 最上義光』(戎光祥出版、|2017年) ISBN 978-4-86403-257-5))、P88(2017年)</ref>|p=88}}
 
伊達政宗は<!--自力での旧領の回復を目指して南下し7月、上杉領の[[白石城]]を落としたものの、東北諸将の引き上げに伴って白石城を返還することを条件に上杉勢と和睦を結んだ。しかしながら、最上氏からの救援要請に応える形で出羽へ援軍を派遣し、9月25日には刈田郡湯原城の攻略に成功する。-->直江兼続が米沢に帰還すると伊達・信夫に進攻し、福島城主本庄繁長と戦うものの補給線を断たれ失敗に終わる。戦後、南部領で一揆を扇動した事が露見し、家康の不信を招いたことによって、いわゆる「百万石のお墨付き」は反故にされ、自力で落とした白石城・刈田郡2万石をそのまま追認されたに過ぎなかった。
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== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|editor=寒河江市史編さん委員会 『|title=寒河江市史 上巻』(1996年)|year=1996}}
* {{Cite book|和書|author=遠藤ゆりこ|title=戦国時代の南奥羽社会』(|publisher=吉川弘文館|year=2016年、 ISBN |isbn=978-4-642-02930-8)8|ref={{SfnRef|遠藤|2016}}}}
* {{Cite book|和書|author=片桐繁雄|title=北天の巨星・最上義光』(|publisher=最上義光歴史館|year=2002年)|ref={{SfnRef|片桐|2002}}}}
* {{Cite journal|和書|author=阿部哲人|title=慶長五年の戦局と最上義光」(『|journal=山形史学研究|issue=45合併号、2016年)|year=2016}}/所収:{{Citation|和書|editor=竹井英文|series=シリーズ・織豊大名の研究 第六巻|title=最上義光|publisher=戎光祥出版|year=2017|isbn=978-4-86403-257-5|ref={{SfnRef|阿部|2017}}}}
 
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